グラスの底に顔を描いた岡本太郎の真意とは

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「芸術は大衆のもの」という理念

岡本太郎と言えば、シニア世代の人なら、まだテレビなどに頻繁に出演されていた頃の姿を覚えている方は多いでしょう。
当時、「芸術とは?」なんて一切考えたこともない、知識もない子供だった私のイメージは「万博の太陽の塔をつくった芸術家、らしいけど、変なおじさん」という感じでした。

今でも覚えている強烈なテレビCMは「芸術は爆発だ!」と叫ぶ姿や、「グラスの底に顔があってもいいじゃないか?」というフレーズです。
もちろん、当時は、面白いポーズで叫んだり、ギョロりとした目で、印象的なフレーズをつぶやく姿は「テレビCM用のパフォーマンス」的にとらえていたのですが、数十年たって「アートとは何か?」というテーマを調べるようになって、「岡本太郎という人」に興味を持って、その芸術に対する信念というものを知った時に、ようやく、あれがただのパフォーマンスではなく、岡本太郎の「信念の叫び」であったのだと理解したのでした。

さて、岡本太郎という芸術家の足跡を調べてみると、アンディウォホールをはじめとするポップアートでは、日常的にそこにある大量生産の缶詰(キャンベルのスープ缶)等を使った作品を創っていますが、岡本太郎は、作品のジャンルや表現領域が驚異的に広く、マッチ箱のような複製を前提にした工業製品にまで作品を残しています。 つまり、ポップアートとは逆のアプローチをとっているとも言えるものです。

これらの行動は、まさに「グラスの底に顔があってもいい」と言って作ったグラス(ウイスキーを買うともらえた)の裏にある主張と同じく、「芸術は大衆のもの」という言葉の実践だったわけです。

こういうものも「本格的アート」だと考えると、アートの「カテゴライズ」だけで、そのアート性を評価するというスタンスがナンセンスということに気づかされます。
また、岡本太郎は、アートを商業的に売ることに対して強い抵抗感を持っていました。
彼はアートを、売買や金銭的価値に縛られたものとして扱うことを嫌っていたのです。 特に、彼がアート作品を展示していた時、しばしば購入希望者からのオファーを断っていたそうです。

岡本太郎にとって、アートは商業的な価値を持つものではなく、自己表現や社会的メッセージを伝えるための手段でした。

彼は「アートは金では買えない」という強い信念を貫き、アートの商業的側面に対して常に疑念を抱いていたのです。 岡本太郎のこうした「芸術は大衆のもの」という理念の実践を知りたい方には、こちらの記事をどうぞ。
「今、アツい!! “岡本太郎”という生き方」(NHK 「サイカル」)  

ただ、岡本太郎が残した著作「今日の芸術」の中で書いた有名なフレーズもここでご紹介しておく必要があります。

別の「インテリアとしてのアート~飾りやすいか、飾りにくいか?」という記事で「インテリア」に「飾りやすいアート」、と「飾りづらいアート」があり、「インテリアに飾りやすいアート」にも「本格的アート」というものは存在する、ということを書きましたが、岡本太郎は「今日の芸術は、うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」と書いています。

また「芸術とは、いやったらしいもの」である、とも言っています。 もちろん、これは、「技巧的にうまくて、きれいで、ここちいいものはアートではない」と言っているのではなく、「今日の芸術」という表題がついているように、この著作が書かれた時代(1954年)には、逆に、「現代アート」がまだ今のような市民権を得ていない時代のアート概念への挑戦としての言葉として捉えるべきでしょう。

この本が日本の現代アートの美術界に与えた影響は大きかったようですが、一方で下記のような「技術軽視の風潮につながった」との書評もあります。 (岡本太郎の著作を批判しているのでなく、その功罪の側面もあるということを指摘されている書評です。)

「うまくあってはならない」という条件が、結果的に技術を相対的に軽視する風潮をもたらしたことも否定できない。」

『今日の芸術 時代を創造するものは誰か』,岡本太郎,光文社知恵の森文庫,1999:書評著作者(福住廉)より抜粋

その時代ごとに、アートの概念は上書きされて変化していくわけですが、一定の時代背景の中では、その時代に必要とされた主張が独り歩きして「その後の風潮」として長く残ってしまいがち、というのも「アートとは何か?」というテーマへの答えが混沌としてしまう理由の一つでしょう。

岡本太郎の絵画作品など60年代以降の作品にマンネリズムが見られるとか、作品としてのクオリティには疑問が付く、といった批判をする人も少なくありませんが、今の再評価の理由を考えると、現代アート作家というのは、その人の生きざま自体がアートな人もいるのだろうと思います。
そういう作家は、作った作品のすべての内容がいいとかでなく、人々の心を大きく揺さぶる作品を生み出すまでの過程そのものが、「傑作」とされる作品に凝縮されるのです。
そういう意味で、こうした作家の作品の一つ一つの評価をファイアート的な評価軸で論じてもいいのですが、それと作家自身の評価を同列に見なしたり、傑作とされている作品も評価しない、というのは違う気がします。

これらの批判は、今の時代の岡本太郎の再評価を、ラッセンなどと同じく日本人の大衆の「ヤンキー的なセンス」で人気が出ているだけ、と言っている気もします。
草間彌生の水玉やカボチャも、同じファインアート軸で評価してしまうと、「ただのポップなデザインでありアートでもなんでもない」という評価になってしまうでしょう。

岡本太郎の有名な著作「今日の芸術」の書籍はこちら 一方で、批判でなく、評価の軸が面白い視点なのが、こちらの糸井重里さんの対談記事。

「岡本太郎は忘れてけっこう」(ほぼ日刊イトイ新聞)

岡本太郎生誕100年 対談 平野暁臣×糸井重里 よりの一節

(平野) 敏子がね、 (平野さんは敏子さんの甥っ子さんです) よーく言ってたことがあるんですよ。

(糸井) うん。

(平野) いろんな人が 「先生、さすがですね、岡本先生は天才ですから わたくしどもにはとてもとても」と言う。無性に腹が立つんだ、蹴飛ばしてやりたくなるんだ、と。 太郎だって、生まれたときから岡本太郎だったわけじゃない。 太郎は決意して、覚悟して、岡本太郎になったんだ。 それを、死ぬまでやりきった。 つらかったと思うし、言えないことがいっぱいあったと思うけど、 でも、彼は最後まで、岡本太郎を降りなかった。そこがすごいし、愛おしいんだ、と。 そんなことも知らないで、「先生さすがですね、すごいですね」甘ったれるな! と。

(糸井) うん(笑)。

 


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