現代アートのラベルは資本とブランドの象徴か?
現代アートの多くは、知識や文脈を共有する限られた層に向けられてきました。その結果、観客層が狭まり、「大衆には届かない」との批判が起きています。
さらに市場では人気作家の作品が、「富裕層の資産承継対策」としての側面を持って高額で取引されることが常態化し、知的価値より経済的価値が優先される傾向も問題視されています。バンクシーの「シュレッダー事件」は市場批判のパフォーマンスでしたが、結果的に作品価値を高めることにつながり、現代アート批判の矛盾を象徴しました。
このように「現代アート」では「こんなものがアートなのか?」と、作品が「社会的」に「アート」として承認された後でさえ、評価が高まるほど同時に反感を買うというねじれを抱えているのです。
これは、「アート」という言葉が資本とブランドの象徴的に使われる現代社会の文化の複雑さの表れでしょう。
アート評価の枠組みが大衆との分断を生む!?
普段はアートに興味ない大衆にとって、殆ど意味不明の作品のオークション落札のニュースが衝撃的に報道されることで、作家の認知度アップとブランド性が高まる、と同時に反発も強まる―このねじれと分断が存在する大きな原因は、こうした「社会的承認」の主体と方法にあると考えられます。
私が「エリートと大衆の分断」を強調するのは、政治との類似性に理由があります。
民主主義社会では票を持つのは大衆であり、民主主義は常に「衆愚政治」に陥るリスクを抱えています。
社会全体が「崖から落ちる道」に進まないためには、英知を集めるだけでは不十分であり、その知を大衆が共感し受け入れることで初めて、社会全体の舵を切る合意形成が可能になるのです。
現代アートが、人間の多様性の表現と共感を得る一つの社会的メッセージ発信装置、としての価値があるのだとすれば、資本の奴隷的な地位に安住せず、アートの持つ「光」の部分をいかに増幅させるかが課題ではないでしょうか。
アート成立のプロセス
アートが「アート」として社会に認知されるには、次の段階を経ます。
自己宣言(任意)
作者が「これはアートだ」と言う場合もあるが、必須ではない。他者評価(重要)
観客や批評家が「価値がある」と認める。社会的合意(決定的)
ここでいう社会、とはアート文脈への知見が高い「アートエリート」が集まる、美術館や美術展(そのキュレーターも含む)、市場、評論家、専門メディア、そして「アートビジネス」としての閉鎖的で特殊な制度や枠組み。それらが評価し承認する、キュレーションして紹介する、という過程で、「アート」というラベルが付与され、社会に認知される。
ここで重要なことは、「アート」とは「内在する本質」ではなく、「社会的プロセスの中で後から与えられるラベル」として広く使われ、一種のブランド的な用語になってしまっている、ということです。
FNAとBNA ― NOT ARTの二つの姿
現代アートをめぐる構造を整理するために、このサイトの一部の記事では実験的に「NOT ART」という逆説的ラベルを導入しています。その下位区分として、FNAとBNAという二つの視点を提案します。
FNA(Framed NOT ART)
制度に収まり、知性や批評性を帯びた表現群。
境界的な作品であっても、美術館や市場、批評によって取り込まれることで「FNA」となります。
BNA(Border NOT ART)
伝統的アートの枠に含まれず、いまも境界に立ち続ける表現群。
一部は「現代アート」として扱われるものの、完全に承認されきっていない例が多いのが特徴です。制度的に下位とされているわけではないのに、社会的には「軽いもの」「奇抜すぎるもの」とみなされがちです。
BNAの二つの系譜
① 非アート目的から派生した系譜
これらは本来、アートとして評価されることを目的としていません。
しかしアート文脈に取り込まれたとき、「軽い」と判断されることがあります。実際にはエンターテインメントや工業デザインを含め、極めて高度な専門性や社会的意義を持つ領域であり、「軽さ」は表現自体ではなく、評価の偏見から生じています。
インテリアアートも象徴的な例です。「アート」というラベルを掲げながらも、装飾性や大衆性ゆえに軽んじられることがあります。商業的製品が多数を占めるため「雑貨的」と見られがちですが、実際には人々の生活空間に深く浸透し、社会に広がる影響力を持ちうる存在です。ラベルを付与してもなお軽視される逆説的な現象こそ、BNAの周縁的な性格を物語っています。
- 写真:芸術か記録かをめぐり揺れ動き、独自の文化領域を築いた。
- デザイン/工芸:生活や実用に根ざしつつ、美術とは別の発展を遂げた。
- 建築:産業的価値と芸術的価値を兼ね備え、独自の位置を占める。
- 漫画・アニメーション:娯楽として普及しつつ、国際的に議論の対象となっている。
- ストリートアート/グラフィティ:都市文化や社会批判の力を持つが、なお「落書き」と見なされる印象が残る。
- デジタルアート/ネットアート:NFTやAI作品など、新しさゆえに評価が不安定で定着していない。
② アート内部から境界を揺さぶった系譜
これらは最初からアート表現として出発しながら、既存の制度や規範を挑発的に揺さぶってきました。
- ダダ:20世紀初頭に制度批判を掲げ、芸術概念そのものを問い直した。
- フルクサス:日常行為を芸術に持ち込み、制度と生活の境界を越えた。
- パフォーマンスアート:身体や行為を通じ、従来の美術形式を壊した実践。
これらは「軽い」と評されるのではなく、むしろ「反芸術的」として受け止められました。
そしてその挑発性こそが、意図された表現でもあったのです。
ラッセンとバンクシー ― 承認と反感の対照
このFNA/BNAの枠組みを念頭に置くと、ラッセンとバンクシーの対比は非常にわかりやすくなります。
ラッセン ― 大衆支持とBNA的周縁
ラッセンは90年代に日本で爆発的な人気を得、「アートをインテリアに飾る」というブームを巻き起こしました。家庭に版画を置く文化を作り出した功績は大きく、そのビジュアルは写真では表現できないCG的な美しさを備えていました。
また彼は、地球環境保護のメッセージを一貫して発信し続けています。ただ、その思想やコンセプトよりも、わかりやすいビジュアルが大衆に支持されたものであり、アイドルのポスターを部屋に貼るような人気だったと言えます。
こうしたことから、アートエリートからは次のように批判されました。
- ビジュアルはわかりやすいが思想的な深みが足りない。
- 大量販売で希少性を失った。
- インテリアポスター的で芸術性に欠ける。
結果として「現代アート」のラベルが使われながらも、「インテリア装飾のポスター」に過ぎないとされ、BNA的な周縁に留め置かれたのです。売り方の商業主義的手法も、承認を遠ざけた一因でした。
バンクシー ― FNAとBNAを同時に背負う存在
一方、バンクシーは社会批評を前面に打ち出したビジュアルで注目を集めました。
- 反資本主義を掲げながら市場で高額取引される矛盾。
- 匿名性が神話を生みつつ批評性を弱めるとの批判。
- わかりやすさが魅力であると同時に「単純すぎる」との批判。
- 無許可のストリートアートはそもそも違法行為。
それでも、デュシャンの《泉》を知らない人でもバンクシーの名前は知っています。
大衆とエリートの双方に強く認知された稀有な存在であり、制度に承認されながらも批判を浴び続ける、FNAとBNAの両義性を体現しているのです。
最新ニュース ― ロンドン警察の捜査
さらに最近、ロンドンのロイヤル・コーツ・オブ・ジャスティス(英国高等法院)の壁に描かれたバンクシーの壁画が「器物損壊」とされ、直ちに覆われ、警察が捜査を開始しました。逮捕の可能性すら取り沙汰されています。
美術館に収蔵されれば数億円の価値を持つものが、街頭に現れた途端に「犯罪」とされる。制度に取り込まれると承認され、制度に抗えば違法になる――この事件は、バンクシーがまさにFNAとBNAの境界を生きていることを改めて示しています
SNSと未成熟な承認
SNSは、FNAやBNAを大量に生み出す新しい舞台です。
猫の写真、ミーム、AI画像などが爆発的に拡散し、大衆的評価を得ます。
しかし現状ではまだ発展途上です。
- 流行に流されやすい
- フェイクや操作が評価を歪める
- 「数」だけが目的化し、批評や理由が欠落する
したがって今の段階では、SNSの承認をそのまま「アート評価」と見なすのは難しいでしょう。
ただし、将来的に透明性や批評性が整えば、新しい社会的合意の仕組みになる可能性もあります。
格付け的なアートのイメージ
「アート=クリエイションの最上位」という固定観念※を支えてきたのは、エリートシステムによる格付けかもしれません。
この構造が、反感を生みやすい状況をつくってきました。
- 他の表現(デザイン、工芸、漫画など)が「下位」と見なされるイメージが残っている
- 評価の中心が一部の専門家に偏り、一般の感覚とは距離がある
- 「理解できない自分が悪いのか?」という戸惑い
- 逆に「こんなものが最上位?」という疑問
ここで重要なのは、「軽い」とされるのは表現そのものではなく、アート文脈に持ち込まれたときに生じる偏見だということです。
さらに、この格付けの混乱を象徴しているのが、伝統的ファインアートとコンセプチュアルアートの同一視です。
ルネサンス期の宗教画や理想美を追求した絵画、あるいはレンブラントやフェルメールのように高度な描写技術を極めた作品は、技巧や美の完成度を基盤に評価されてきました。
一方でコンセプチュアルアートは、観念や批評性を重視し、技巧や装飾を必ずしも前提としません。
本来はまったく異なる性質を持つ両者が、「アート」という同一ラベルで括られてきました。
その結果、「アート=難解で高尚なもの」という固定観念が強まり、工芸やデザイン、インテリアアートのような領域が「アート」というラベル付けの意識の中でだけ、相対的に軽んじられる傾向を助長しているのです。
そう、本来異なるものに同じ「アート」というカテゴリ分類ラベルが貼られてしまった弊害なのです。
※本記事で述べる「アート=最上位的なイメージ」とは、近代以降の美術史や社会の中で形成されてきた一つの傾向を指しています。必ずしもすべての芸術家や研究者がこの序列を前提にしているわけではなく、あくまで「社会に広く共有されてきた固定観念」としての整理です。
逆説的ラベルとしてのNOT ART (=CONCEPTUAL CREATION)
そこで、このサイトではすべてを「NOT ART」と呼ぶ実験を行っています。
- 「アート=最上位」というイメージの序列を外す
- 「こんなものがアートか?」という場合の「アートというラベル」への無駄な議論を入口で消してしまう
- FNAやBNAの相互移行を見つめ直す
- ラベルを外したときに初めて見える価値を探る
これは、単なる言葉遊びと批判されることは覚悟の上で、承認と反感のねじれを解きほぐす試みです。
本来であれば「コンセプチュアル・クリエイション(Conceptual Creation)」とでも呼ぶべきかとは思います。
「ラベルを変えるだけ」というのは単純に見えますが、文化は呼び名の変化によって変容してきた歴史があります。
印象派、ポップアート、ストリートアート…
いずれも最初は蔑称でしたが、やがて文化の旗印となり新しい流れを生み出しました。
NOT ARTもまた、その延長線上で社会の認識を変えるワードは何か、ということで選んだ言葉です。
このワードセレクトと、その言葉をブランド化しようとする試み自体が、評価されるかどうかは別にして、まさにコンセプチュアルアート的なアプローチなのです。
100年後への提言
現実には「現代アート」という呼称を即座に置き換えることはできません。
制度や市場は既存のこうした言葉の文化の枠組みに依存しています。
それでも、NOT ARTという言葉を掲げることは100年後への提言です。
未来の補助線として再解釈され続けるなら、それ自体が「アートと社会の関係」を問い続ける長期的な実験となるでしょう。
もちろん、ここで行っているのは一個人のブログでの小さな実験にすぎませんが(笑)。
この理論は「ラベルもまたラベルにすぎない」という弱点を抱えています。
しかしそれは、制度の強さを映す鏡であり、周縁表現を見直す批評装置として意味を追求した結果です。
批判者との対話、そしてデュシャンへのオマージュ
「こんなものがアートなのか」という批判を無視しません。
むしろ「あなたの言う通りだ」ということで最初の無駄な議論を飛ばして、その上で議論を始めます。
「NOT ART」へのラベルの貼り換え※は、批判を軽視するのではなく、対話の出発点として、不毛な議論を飛ばそうという試みです。
そしてこれは、デュシャン《泉》へのオマージュでもあります。
自己否定を出発点に置くこと自体が、既存の枠組みを揺さぶるデュシャン的実験の継承だからです。
※そんな面倒なことをせずとも、「批判には平易な言葉で説明すれば十分ではないか」という考え方は、一見合理的ですが、実はアートの余白を切り捨て、問いや衝撃を封じ、コンセプチュアルアートの存在意義を否定するのと同じです。
ちょっと現実の話
正直、この物価高の中で「アートとは何か」なんて議論、世の中の大半の人からすれば「そんなことより卵の値段の方が大事だろ」と一蹴されるのかもしれません。
実際、その通りです(笑)。
けれども、だからといって文化や表現について考える余地まで削ってしまったら、日々の暮らしはただの消耗戦になってしまう。そう考えると、こんな小さな言葉の実験にも、案外バカにならない意味があるのでは、いや、あって欲しいというささやかな願いで書いています。
まとめ
- アート成立は「自己宣言(任意)/他者評価(重要)/社会的合意(決定的)」というプロセスで認知される。
- FNA(Framed NOT ART)は制度に収まったNOT ART。
- BNA(Border NOT ART)は伝統的アートの外にあり、今も現代アートのラベルが着ききっていない表現群。
- 非アート目的から派生した系譜(写真、工芸、デザイン、建築、漫画、ストリート、デジタル、インテリアなど)は、アート文脈に持ち込まれると「軽い」とされがちだが、本質的には高度な価値を持つ。
- アート内部から境界を揺さぶった系譜(ダダ、フルクサス、パフォーマンスなど)は、「過激」「反芸術的」と見られがちだが、アート概念を根底から問い直した。
- ラッセンはBNA的にとどまった例、バンクシーはFNAに収まりつつも賛否両論を背負う例。
- SNSは未成熟だが、将来新しい承認の仕組みを生み出す可能性を持つ。
- 「軽さ」とは表現の性質ではなく、アート文脈に引き込まれたときに生じる偏見である。
- NOT ARTは逆説的ラベルとして、承認と反感を受け止め、アートの境界を再考する方法。
- 現実にはArtstylic内の仮想ラベルから始め、100年後への提言として展開する。
実際には権威ゼロのこのサイトで主張しても全くの無力です。
そしてここで述べたことは、結論ではなくあくまでも筆者個人の思考の過程をご紹介してるに過ぎません。
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