知性と感性の統合的体験イベントに潜む未来のアートへの可能性
現代アート(コンテンポラリーアート)は、社会的メッセージや知的価値を重視し、社会を変革しようとする力を持っています。
しかし、そのメッセージがどれだけ広範な観客に届いているのか、どれだけの変化をもたらしているのかに疑問を投げかける批判も多くあります。
現代アートが発信するメッセージやテーマはしばしば抽象的で、特定の知的エリート層にしか理解されないことが多いため、一般大衆にとっては「難解で理解しにくい」という結果になっています。
そのため、現代アートが本来持っているべき「感動を呼び起こす力」や「共感を与える力」が薄れ、社会的な影響を与える力が弱まっているのではないかという批判もあります。
一方で、「アート」とはあまり呼ばれることが無い、ロックコンサートやインタラクティブなイベント等は、視覚的な美や深い解釈を超え、観客が直接的に関与し、感覚的な体験を通じて自らの理解を深めることを可能にします。
(ロックコンサートが体験型イベントに進化するきっかけとなった時代背景はこちらの記事をご参考に)
これらのイベントは、感覚的な魅力や即時的な共感を提供しつつ、そこに含まれるメッセージを知的に感じ取る力も呼び起こします。
すなわち、感覚的な体験を通じて、知的な理解が促進され、知性と感性が融合した体験が観客に提供されているのです。
1. 現代アートへの批判と知的エリート層の影響
現代アートが発信するメッセージや社会的価値は、非常に抽象的で難解な場合が多く、その多くは専門的な知識を持つ知的エリート層に向けられています。
このため、一般大衆には理解されにくいことが多く、その結果、アートが持つべき感動や共感を呼び起こす力が削がれるという批判を受けています。
また、現代アートは商業的にも成功を収めており、その多くが「エリートのためのアート」として位置づけられがちです。
現代アートが市場で高額で取引され、商業的な価値が重視されることで、アートそのものが知的な評価や経済的価値を中心に回るようになり、アートの本来の社会的影響力が制限されることになります。
現代アートが知的エリート層に評価される一方で、社会的メッセージが一般大衆に届く前に、評価が経済的価値や市場によって決定されるため、そのメッセージが広く浸透することは少なく、限られた層にとどまってしまうのです。
これにより、「アート」としての社会的影響力が乏しくなり、アートが本来持つべき力が失われてしまっているのではないか、との批判につながっているのです。
このような状況にあるのは、そもそも、「富裕層の投資対象」としての「現代アート」を維持するために「敢えてコモディティ化させない」ということを意図的に行っている仕組みが「アートワールド」を牛耳っているのだから、当然と言えば当然ですが。
2. 体験型アートと感覚的な共鳴
ロックコンサートやインタラクティブな体験型アート、イベント等は、観客が「感じる」ことと「考える」ことの両方を刺激する体験を提供します。
インスタレーションアートやパフォーマンスアート、VRアートなどは、観客の反応や体験によってその意味を変化させ、感覚的な魅力を与えると同時に、そこに込められたメッセージを知的に感じ取る力を引き出します。
このようなアートは、視覚的に美しいとかの刺激を受けるだけでなく、観客の身体的な感覚や感情を通じて知的な解釈を促す力を持っています。
例えば、社会的なテーマや政治的な問題をテーマにしたインスタレーション等のアートは、その視覚的な美しさや驚きの体験を通じて、観客にメッセージを感じ取らせることができます。
観客はその体験を通じて深い思索を促され、知性と感性が統合された体験を得ることができます。
これにより、体験型アートは、従来の「見るだけのアート」とは異なり、観客が自らアートに関与し、感じることで知的な理解を得ることができる新しいアートの形態となります。
3. アート業界の知的エリート層と体験型イベントの皮肉
面白いことに、ロックコンサートや大規模なパフォーマンスイベントが現代アートとして評価されることはあまりありません。
これらは、現代アートと同様に権利化して譲渡しているケースはありますが、多くは、アートコレクターではなく、イベント興行主やレコード会社等がイベントを開催する権利として購入しているのが一義的な目的であり、資産として保管するためという目的は少ないでしょう。
アート業界が「現代アート」として様々な作品を紹介する時、これらの体験型イベントを取り上げることは少なく(まして「ロックコンサート」を取り上げている事例を目にすることは殆どありません)、「エンターテインメント」「商業的なイベント」としてスルーしがちです。
しかし、皮肉なことに、これらの体験型イベントこそが、実際にはアート業界が「現代アートとは」と定義していることの本来の力を、はるかに強く発揮しているとも言えるのです。
ロックコンサートやパフォーマンスイベントでは、音楽やパフォーマンスが感覚的に強い共鳴を引き起こし、同時に社会的なメッセージや政治的な問題を意識させるための強力な手段として機能します。
観客はその体験を通じて感覚的に興奮し、同時にその背後にある社会的なメッセージや反骨精神を意識します。
こうした体験が、現代アートが本来目指している「社会的メッセージを広める」という目的をより効果的に果たしているのではないかという皮肉が生まれるのです。
つまり、現代アートの知的エリート層が評価しないと「アート」と見なさないこれらのイベントが、実際にはより多くの人々にメッセージを伝え、感情的に響かせる力を持っているという事実があります。
この現象が、現代アートのエリート主義的な価値観を問い直すことで「現代アート」の未来の可能性を示唆していると考えられないでしょうか。
もちろん、「現代アート」はもはや「美術」ではない、人に心地悪いものも「エロ・グロ・ナンセンス」なものも容赦なく見せつけるものこそ「アート」なのだ、と言わんばかりの過激なテーマからみれば、大衆が心地よさを感じる=美術の延長、的なロックコンサートや美しいグラフィックのインスタレーション等がアートなんて…みたいな感じかもですが。
とは言え、1970年代のロックコンサートなど、健全な少年少女のための音楽鑑賞からスタートなどしていない、ある意味、ドラッグ文化という不健全な動機で集まった観客たちがメインだったのは同じです。
4. 知性と感性の融合体験としてのアート
現代アートと体験型イベントの最大の違いは、体験型イベントが、まずは直感的な楽しさを提供することを第一義としつつ、そこに知的な挑戦やメッセージを伴うことができる点です。
例えば、社会批判のコンセプチュアルなロックアルバムをもとに巨大な舞台装置とスクリーンで「体験型アート」とも呼べるような先進的なロックコンサートを行った1970年代の先進的事例では、観客がその体験を通じてメッセージを感じ取るだけでなく、知的な解釈を促される体験をします。
これらのミュージシャンが示した「体験型アート」のような「ロックコンサート」は、単なる感覚的な反応にとどまらず、同時に思考や認識を呼び起こす力を持っており、感性と知性が融合した体験として新たなアートの形態の可能性を示した先駆的な事例とも呼べるものです。
しかし、「現代アート」において、「音楽」について紹介されるときは、この重要な歴史的な事例をスルーして、ジョン・ケージ等の前衛音楽や「サウンドアート」の紹介にとどまっているケースが殆どです。
5. 現代アートにおける抽象性とメッセージ性のバランス
現代アートにおけるエリート意識とその表現方法について考察する際、しばしばそのアートが目指すべき「伝達」という目的が過剰に抽象化されることがあります。
現代アートの多くは、直接的なメッセージを避け、間接的または抽象的な表現を用いることで、その解釈を受け手に委ねる傾向があります。
このアプローチは、言いたいことをストレートに表現することなく、感情やテーマを多様な形で表現することに価値を見出し、まるで短歌や和歌のような形式を踏襲しています。
つまり、現代アートは一つの明確なメッセージを伝えるよりも、複数の解釈を許容し、受け手にその解釈を委ねることを重視しているのです。
この「間接的な表現」の価値は、受け手がそれぞれの経験や背景に基づいてアートを解釈する自由を与え、アート作品が持つ多層的な意味や深みを感じ取ることを可能にします。
つまり、アートが提示するテーマや感情に対する解釈の幅を広げ、鑑賞者が自分自身の感情や思考を通じてその作品を深く理解することができるのです。
この点で、現代アートはロックミュージック等のようなメッセージが直接的なものとは違って、その抽象性や多義性を通じて深みを持ち、アートとしての価値が増すとされています。
(もちろん、ロックやポップソングも、ダイレクトなメッセージでなく、いろいろな意味にとれる歌詞をうたうケースもあり、また、ボブディランがノーベル賞を受賞したように、文学的な詩を追求するのも珍しいことではありません。)
しかし、このアプローチには一つのリスクがあります。それは、アートが過度にエリート的な遊びになってしまう可能性があるということです。
言いたいことをあえて隠すことが、しばしばアートを一部の理解者や特定の文化的背景を持つ人々だけに閉じ込めてしまう恐れがあります。
現代アートが意図的に多義的であることが、一般大衆には伝わりにくく、結果としてアートが平安時代の短歌や和歌のような「貴族的な遊び」や「知識階層向けの楽しみ」になり、広い観客層にメッセージを届けるという本来の目的が達成されないリスクを孕んでいます。
(短歌や和歌という素晴らしい日本の言葉の文化を否定するものではありません。)
このような課題を解決するためには、現代アートが持つ抽象性や多義性を維持しつつも、メッセージが一部の人々に閉じ込められることなく、より多くの人々に届く形で表現することが必要です。
つまり、アートとしての深みを持ちながらも、そのメッセージが一定の範囲の受け手に伝わるような方法を見つけ出すことが、現代アートが抱える課題と言えるのかもしれません。
このアプローチによって、アートはエリート向けの「難解な推理ごっこ」にとどまることなく、広く多様な観客層に対しても意味を持つ作品へと昇華することができるのではないでしょうか。
そして、このことは、既に「ヨーコ&ジョン」の「イマジン」がその方法論を示している気がします。
6. 結論:現代アートの進化と大衆との再接続
現代アートがその社会的メッセージや知的価値をより多くの人々に伝え、広範な社会に響く力を持つためには、インテリアアートや体験型イベント等との大衆の娯楽的な「NOT ART」との融合を目指すことが一つのカギではないでしょうか。
知的な価値や社会的メッセージを伝える現代アートが、そのメッセージをより多くの人々に届けるためには、感覚的な魅力や共感を呼び起こす力を持つ身近な「インテリアアート」や「体験型イベント」を「アート」として再評価してみてもいいのかもしれません。
もちろん、このような多くの公衆が集めるイベントで扱えるテーマには限界があります。
現代アートは、知的な挑戦や社会的メッセージを発信するだけでなく、感覚的に共鳴し、視覚や感情を揺さぶる力をも持っているべきです。
この融合的なアートこそが、より多くの人々にアートの本当の力を伝え、社会に大きな影響を与えることができる可能性を秘めているのではないでしょうか。
このようなきれいごとは「アート」には不要、と言われそうですが、「大衆」に「厳しいことを訴える」うえで、「まずは皆が一致団結できるきれいごと」を並べられないのでは、そっぽを向かれて「価値観の分断」が進むばかりでしょう。
いずれにしても、この方法に限らず、現代アートがどのように進化し、一般大衆とつながるかは、今後のアート界にとって大きな課題であり、試行錯誤を経て最適な形を模索していく時期にさしかかっているのではないでしょうか。
とはいえ、100億円の値段がついて話題となった、ジェフ・クーンズのウサギの作品「ラビット(Rabbit)」のようにダイレクトに言わない(ウサギの意味するところは子供には言いにくい、みたいなところも含めて)からこそ強烈な風刺が効いていて面白く「メッセージ」の影響力も大きい、というのも現代アートの現代アートたる所以でしょう。オークション価格の不条理さとかは別にして、このような現代アートのあり方も併存していくことを否定するものではありません。
最後に
このような「現代アート(コンテポラリーアート)」への批判、課題をテーマとして、近未来のSF小説にしてみました。
「現代アートの課題をテーマにSFアート小説をAIに書いてもらう」
追記:
そもそも、「現代アート」を批評するには「現代アート」を知らねばなりません。
こちらの書籍「現代アートとは何か:小崎哲哉著」(河出書房新社 2018)についての書評サイトをご紹介しておきます。
「松岡正剛の先夜千冊」より
美術は日常的なコモディティにならないようにしてきた。何かを競いあい見せあうのだからオリンピックや万国博のようでもあるけれど、それともちがう。スポーツ界や産業技術界は別の交換市場や見本市をいくらでももっている。
それらにくらべて「ヴェネツィアで見て、バーゼルで買う」ことになったアートワールドには、かなり特別な仕掛けが作動してきた。現代アートという特別な仕掛けだ。まことに特別で、面妖で、けっこうトリッキーなのである。
Amazonの書評は賛否両論あるので、否定派の書き込みもご紹介しておきます。
さて、あなたはどちら派?
「★バランスの悪い偏った意見」(カスタマーレビュー あべまりあさん)
作者はアートワールドなるものを過大評価して①死者が墓石によって投票する民主主義による価値判断を軽視し、②真理・善・美と芸術/アートとの関係について、また真善美相互の関係について考察を怠ったため、③経験の諸パターン相互の区別と関連性についての考察を怠り、④自然と超自然(恩寵)の関係性について考察していないため、非常にバランスの悪い「現代アート」についての意見を表明するに至っている。この本の価値は、200年後、300年後に庶民の良識が判定するだろう。
基本は、「Casa BRUTUS特別編集 日本の現代アート名鑑100 (MAGAZINE HOUSE MOOK) ムック – 2022/4/5」の書評なのですが面白いので、こちらの記事もご紹介させて頂きます。
「美術」と「アート」は別物だというその理由を主張されている記事ですが。
「現代美術は美術ではない。/美を超越するもの。/物質と言葉と時間と空間の自由のためにあるいは、人間の自由のために」(「歩く水のような人の形をしたもの」さん著)