はじめに:現代アートの本場が抱える逆説
アメリカは「現代アート※」の中心地とされています。ニューヨークを拠点とする美術館やギャラリーは世界市場を牽引し、多くのアーティストにとって憧れの舞台となっています。
しかし、その「本場」であるアメリカ社会は、近年ますます深い分断に直面しているのではないでしょうか。保守とリベラルの対立は単なる意見の違いではなく、相手の存在そのものを受け入れないほど先鋭化しているとも言われます。
本来、アートは多様性を認め合い、対話を促すための言語であったはずです。ところが、現実にはその力が十分に発揮されていないのではないか―そんな問いが浮かび上がります。
※「現代アート」や「コンセプチュアルアート」等の用語は、かなり曖昧でややこしい言葉です。この記事では、「現代アート」を「コンセプチュアルアート」という本来は狭義の用語が拡張されて、コンセプト、メッセージを表現する多様なクリエイションを表現するという意味での、広義のコンセプチュアルアート、という意味での「現代アート」として使用しています。
→ 参考記事「アートとは何か、現代アートとは何か?」
この投稿は、三部作シリーズの第二部です。
- 第一部「現代アートへの批判と課題」では、現代アートが抱える「価値観の分断」を大枠として整理しました。
- 第二部となる本記事では、その分断がアメリカ社会の現実とどのように結びついているかを、具体的な制度・表現の偏りの事例から掘り下げます。
- 第三部「NOT ART:『許されざる者』をなぜ今、取り上げるのか」では、映画を通じてその構造を寓話的に読み解きます。
1. 分断社会における言論の揺らぎ
アメリカでは「言論の自由」が憲法で保障されていますが、現実には保守・リベラル双方の陣営で相手の発言を封じ込めようとする動きが強まっているように感じられます。
実際に、大学や公共空間においても「安全」と「自由」のバランスが揺らぎ、論争的な発言やイベントの開催が難しくなってきているとも報じられてもいます。
このような分断の深まりは、アートが社会とどう関わるかを考える上で避けて通れない背景になっているのではないでしょうか。
2. 現代アートの理想と現実
(1) 理想
現代アート、とりわけ「コンセプチュアルアート」の潮流が拡張された現代アートのメインストリーム的な作品は「作品」そのものよりも「問い」や「概念」を重視します。
- 完成品ではなく「問い」を提示し、鑑賞者に思考を促す。
- 多様な解釈を許し、立場を超えた対話の場を開く。
- 民主主義社会における「自由な思考の媒介」として機能する。
このような理想は、まさに分断を超えて対話を生む可能性を持つのではないか、と考えられてきました。
(2) 米国社会の現実で見える傾向
アートという面から米国の第二次トランプ政権の動向を見てみると、現実には、アートのテーマや制度のあり方が特定の方向性、つまり、リベラル派の思想の表明材料の場に偏って政治的分断を助長してきた可能性もあります。
- 現代アートで取り上げられるテーマには、人種差別、ジェンダー、移民、環境問題など、リベラル寄りの課題が多い。
- 美術館や大学も「多様性」「包摂性」を理念に掲げ、フェミニズム理論やポストコロニアル理論などが主流の批評言語となっていると思われる。
- このような背景から、アートが「リベラルの象徴」と見なされやすい構図が生まれやすい。
米国の現状から「アート=リベラルのツールである」と断定するのは行き過ぎではありますが、リベラル寄りの人々にとっては「社会変革を後押しする文化」と映り、保守の人々にとっては「自分たちを否定する装置」と映る―そうした二面性が現状を複雑にしているのではないかと思われます。
3. 問いを開くはずのアートが問いを閉じるとき
本来、コンセプチュアルアートは「問いを残す」ことを使命としてきました。
しかし分断が深まる米国社会においては、以下のような事態も起きている可能性があります。
- 作品が「リベラルの象徴」とラベル化され、対話が始まる前に位置づけられてしまう。
- 異なる立場の人にとっては「対話の呼びかけ」ではなく「挑発」と映ってしまう。
- SNSで拡散される過程で、複雑な問いがスローガンに矮小化され、思考の深まりが削ぎ落とされてしまう。
問いを開くはずのアートが、かえって問いを閉ざす役割を果たしてしまっているのではないか―現代アートの本場である米国の現実をみていると、そうした懸念が浮かび上がります。
4.米国アート業界の政策・制度的な不安定さ
ArtScape(梁瀬薫氏の記事)が指摘しているように、アメリカのアートシーンでは表現の外側にある制度や資金政策が揺らいでいる事実も見逃せません。
- 全米芸術基金(NEA)など公的助成の廃止提案や予算削減が繰り返されてきた。
- 助成金の撤回は、先住民アーティストや「DEI(多様性・公平性・包摂性)」を掲げるプロジェクトなど、マイノリティに関わる作品や活動に大きく影響しているのではないか。
- 一方で、緊急基金や美術館・財団など、制度外での支援が模索されているとも報じられている。
- 展覧会では、ラシッド・ジョンソンやエイミー・シェラルドといった人種・アイデンティティを主題とするアーティストが注目を集めており、社会的議題とアートの結びつきが強く示されているのではないか。
今後、このように制度的な「外圧」がアートのテーマ選択や活動の存続に影響を与えていく懸念もあります。
また、今回のトランプ政権の誕生で、図らずも米国社会における現代アートの位置づけを考えさせられることにもなりました。
参考記事:ArtScape「第二次トランプ政権下で、アメリカのアートシーンはどこに向かっているのか」(梁瀬薫)
5. 無力なのか、それとも可能性があるのか
こうした状況を踏まえると、アートは本当に分断を超える力を失ってしまっているのか、それともまだ可能性を秘めているのでしょうか。
- 限定的な場であっても、深い共感や思索を促している事例は残っているのではないか。
- ラベル化そのものを主題とする作品は、分断の構造を可視化し、批判的に問い直す契機を持つのではないか。
- 小規模な場や教育の文脈では、政治的立場を超えて人をつなぐ役割を果たすことができるのではないか。
6. キュレーター難波祐子さんのインタビューにみる「アートの本質」
キュレーターであり、東京藝術大学の特任準教授でもある難波祐子先生のインタビュー記事から抜粋引用してご紹介しておきます。
「(政治的なプロパガンダに)役に立ちすぎるのも問題」であり「適度な距離感をとりづらいのがアートの特性かもしれない」という言葉が印象的でした。
現代アートの歴史に詳しい先生だからこその、重みのある言葉だと感じました。
「キュレーターの存在なぜ注目される?『現代美術キュレーター10のギモン』難波祐子氏に聞く、アートの本質」
2024.03.31 12:00  文・取材=米田圭一
──社会におけるアートの役割はありますか? たとえば災害時など。
難波:難しい問題ですね。震災もコロナ禍もそうですが、悲惨な事態にどう対応するかはアーティストでも意見がわかれるところだと思います。すぐ現地に行ってアクションをおこす人もれば、しばらくは何も考えられない人もいる。坂茂さんが阪神・淡路大震災をきっかけに、災害者支援として段ボールで仮設住宅を作りましたが、建築家やデザイナーなどプラクティカルなクリエーションをしている人のほうが現場にすぐ対応できるのでしょう。コロナ禍ならマスクをデザインするとか。
──実用的なことなら行動に移しやすいです。
難波:ただ現代美術は、ある程度抽象化していくプロセスがないと距離が近すぎて……。すぐに役に立つようなものではないと思います。コソボ紛争のときに、現地の難民キャンプに行って子どもたちと一緒に絵を描くワークショップをする活動がありましたが、基本的にはアートの力で何かをやろうというのは短期的にはなかなか難しいと感じています。
─何かしらメッセージを伝えるのも難しいですか?
難波:世の中が危機的な状況にある時にアートになんらかのメッセージを込める活動は、一歩間違えればプロパガンダとなってしまう危険性をはらんでいます。もちろん、政治的なアートがいけないわけではなく、必要なときには必要な手段としてやるべき。特に現代美術のアーティストは境界線に挑んできた歴史があり、そこは否定するつもりはありません。ただやり方を間違えると、第二次世界大戦中のナチズムのように極端なナショナリズムに加担するなど、危険をはらんでいるのも確かです。アートが役に立たないとは言いませんが、役に立つように使い過ぎるのも問題だと思っています。そういう意味では、適度な距離感というものを取りづらいのがアートの特性なのかもしれません。
7. これからの課題 ― 対話と共感のツールとなるために
では、アートが改めて「対話と共感のツール」となるにはどうすればよいのか、いくつかの方向性をあげてみました。
- ラベルを超える表現
 政治的カテゴリーに回収されない問いを提示し続けることが必要ではないか。
- 多様な場での実践
 美術館や批評空間に限らず、地域や教育の現場など、異なる立場の人々が出会う場所にアートを開いていく必要があるのではないか。
- プロセスの公開
 完成品ではなく制作や議論の過程を可視化し、参加の余白を広げることが有効ではないか。
- 制度的支援と草の根の補完
 政策的な支援の不安定さを前提に、民間やコミュニティレベルの支えを強化する仕組みが求められているのではないか。
- 問い続ける姿勢
 分断が深まる中で対話が届かないとしても、なお問いを投げ続ける姿勢こそがアートに残された役割ではないか。
- 政治的プロパガンダとなるリスクへの自覚
 何が正解か、答えはないが、政治的に極端なメッセージには二項対立の固定化による社会の分断を生んでしまうリスクを背負っていることを自覚する必要がある。
結びにかえて
アメリカ社会の分断は、現代アートの意義にも大きな課題を突きつけているように見えます。
本来の理想である「多様性」と「対話」をどうすれば現実の中で実現できるのか?
- アートは分断を超える言語となり得るのか。
- それとも政治的ラベルに回収され、無力に見えてしまうのか。
そして、もしアートが再び対話と共感のツールとなることを目指すなら、その道筋を探るのは作家だけでなく、受け手である私たち自身にも課されている課題なのかもしれません。
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ここで扱った「分断」と「アート」の課題は、実は映画の世界でも鮮烈に描かれています。
クリント・イーストウッド監督の『許されざる者』(1992)は、西部劇の終焉を描きながら、銃社会の矛盾とリベラル・保守の分断構造を寓話的に浮かび上がらせました。
どちらかに極端に寄せたメッセージではなく、どちらもが人間の本質を深く考えさせられる、という点がこの作品の核になっており、30年の時を超えて、再び世界に重いテーマを突き付けています。
続きは NOT ART:『許されざる者』をなぜ今、取り上げるのか をご覧ください。
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