現代アートのラベルは資本とブランドの象徴か?
現代アートの多くは、知識や文脈を共有する限られた層に向けられてきました。その結果、観客層が狭まり、「大衆には届かない」との批判が起きています。
さらに市場では人気作家の作品が、「富裕層の資産承継対策」としての側面を持って高額で取引されることが常態化し、知的価値より経済的価値が優先される傾向も問題視されています。バンクシーの「シュレッダー事件」は市場批判のパフォーマンスでしたが、結果的に作品価値を高めることにつながり、現代アート批判の矛盾を象徴しました。
このように「現代アート」では「こんなものがアートなのか?」と、作品が「社会的」に「アート」として承認された後でさえ、評価が高まるほど同時に反感を買うというねじれを抱えているのです。
これは、「アート」という言葉が資本とブランドの象徴的に使われる現代社会の文化の複雑さの表れでしょう。
※「現代アート」や「コンセプチュアルアート」等の用語は、かなり曖昧でややこしい言葉です。この記事では、「現代アート」を「コンセプチュアルアート」という本来は狭義の用語が拡張されて、コンセプト、メッセージを表現する多様なクリエイションを表現するという意味での、広義のコンセプチュアルアート、という意味での「現代アート」として使用しています。
→ 参考記事「アートとは何か、現代アートとは何か?」
この投稿は、三部作シリーズの第一部です。
- 第一部では、現代アートが抱える「価値観の分断」という構造を概観します。
- 第二部「米国の分断から見えてくる現代アートの課題」では、社会的・制度的背景を掘り下げます。
- 第三部「NOT ART:『許されざる者』をなぜ今、取り上げるのか」では、映画を通じて分断の寓話性とアートの可能性を論じます。
現代アートのややこしさ―ノーブル(スノッブ?)とオープンのせめぎ合い
アート評価の枠組み「アートワールド」が生む分断
普段アートに関心のない人々にとって、意味不明な作品が高額で落札されるニュースは強烈な違和感を伴います。
それは作家のブランドを高めると同時に、反発を強める。
このねじれの背景には、「社会的承認」の仕組み、例えば「アート・バーゼル」のようなアートフェアにみられる「アートワールド」の枠組みそのものがあると言えるでしょう。
現代アートをめぐる最大の問いは「そもそも何がアートなのか?」です。
制度論やダントーのアートワールド論はこの問いに答えようとしましたが、「制度がアートを規定している」かのような誤読を招く一方で、現実は、その「誤読」の方が正しかったかのように、大衆とアートの断絶を深める一因となっています。
多様性に潜む分断の要因
エリートにも大衆にも、実際には単純に二分できない多様な価値観が存在します。
しかし「多様だからすべてを認めるべきだ」と考えるのは短絡的です。
人類社会にとって何が大事なのかを見極め、よりクレバーな道を探すための多様性であって、破滅へ向かう価値観まで受け入れるべきではありません。しかし、そもそも、どちらが破滅への道かがわからないから、お互いに相手を否定しあいます。
このように、多様性の中には希望もあれば危うさもある―その構図は「エリートと大衆」という二項対立の関係だけでなく、エリートの内部にも、大衆の側にも潜んでいます。
エリート内部の対立
現代アートに関しては、アートエリートの内部にも、実は「ノーブル」と「オープン」という立場※で分かれる価値観も存在すると思われます。
閉じられた枠組みだからこそそこに価値があるとする人と、社会に向けて開こうとする人々。
その対立は、「現代アート」というラベルを貼る世界をさらに複雑でややこしいものにしています。
さらに「ノーブル※」な立場も、私がここで書いているような「課題」は課題ではなく、「意図的な狙い」であり、この記事の内容は全て的外れで嘲笑して無視すべきもの、という場合は「スノッブ」と呼びたいと思います。
※言葉としては反対語ではないですが。本当に「Noble」なのか「Snob」なのかが問題です。
混沌の場としての現代アート~本当の「高貴さ」とは?
現代アートは「わかる人だけの世界」と見られがちですが、その実態は理念の異なる人々がせめぎ合う混沌の場です。
このことを知らないで見る人には、現代アートというラベルの全てが「エセ高貴で鼻につくもの」と感じるでしょう。
その結果、「現代アート」に対して、まるで真逆の価値観とメッセージが込められていても、ひとくくりで反感を持つことにつながります。
こうした安易な分断の未来は、並行世界の寓話を思わせるものに向かっていくかもしれません。
オープンなスタンスのアートは、多様性の相互理解を促そうとするものですが、相容れない価値観も確かに存在します。
そこに現実の難しさ、短期的な視点での「アートの無力さ」を感じさせる要因があるのかもしれません。
アート成立のプロセス
アートが「アート」として社会に認知されるには、次の段階を経ます。
自己宣言(任意)
作者が「これはアートだ」と言う場合もあるが、必須ではない。他者評価(重要)
観客や批評家が「共感できる、何かが響く」と感じ、それが多くの人に生まれるから「価値がある」と認める。
「広義のアート」という意味でいえば、「アートとは鑑賞者の心の中に生まれる」ので、多くの人に認められる必要は無いが、ここでの「アート」は、「現代アート」というラベルを獲得するかどうかという視点。社会的合意(決定的)
ここでいう社会、とはアート文脈への知見が高い「アートエリート」が集まる、美術館や美術展(そのキュレーターも含む)、市場、評論家、専門メディア、そして「アートビジネス」としての閉鎖的で特殊な制度や枠組み。それらが評価し承認する、キュレーションして紹介する、という過程で、「アート」というラベルが付与され、社会に認知される。
ここで重要なことは、「狭義のアート」とは「内在する本質」ではなく、「社会的プロセスの中で後から与えられるラベル」として広く使われ、一種のブランド的な用語になってしまっている、ということです。
FNAとBNA ― NOT ARTの二つの姿
現代アートをめぐる構造を整理するために、このサイトの一部の記事では実験的に「NOT ART」という逆説的ラベルを導入しています。その下位区分として、FNAとBNAという二つの視点を提案します。
FNA(Framed NOT ART)
制度に収まり、知性や批評性を帯びた表現群。
境界的な作品であっても、美術館や市場、批評によって取り込まれることで「FNA」となります。
BNA(Border NOT ART)
伝統的アートの枠に含まれず、いまも境界に立ち続ける表現群。
一部は「現代アート」として扱われるものの、完全に承認されきっていない例が多いのが特徴です。制度的に下位とされているわけではないのに、社会的には「軽いもの」「奇抜すぎるもの」とみなされがちです。
BNAの二つの系譜
① 非アート目的から派生した系譜
本来はアートを目的としない領域が取り込まれると、「軽い」と見なされがちです。しかしそれは表現自体ではなく、評価の偏見によるものです。
例:写真、デザイン・工芸、建築、漫画・アニメ、ストリートアート、デジタルアート(NFTやAIなど)。
どれも高度な専門性や社会的意義を持ちながら、制度の外側に置かれやすい存在です。
② アート内部から境界を揺さぶった系譜
アートそのものから出発し、制度を挑発的に揺さぶった流れ。
例:ダダ、フルクサス、パフォーマンスアート。
これらは「軽い」とは評されず、反芸術的挑発として受け止められました。
ラッセンとバンクシー ― 承認と反感の対照
ラッセン ― 大衆支持とBNA的周縁
90年代、日本で爆発的に流行したラッセンは「家庭にアートを飾る」文化を作りました。地球環境保護を訴える姿勢も一貫していましたが、大衆に支持された理由は思想ではなく、わかりやすく華やかなビジュアルです。
その結果、アートエリートからは「思想が浅い」「大量販売で希少性を失った」「ポスター的で芸術性に欠ける」と批判され、BNA的な周縁に位置づけられました。
バンクシー ― FNAとBNAの両義性
一方のバンクシーは、社会批評を前面に打ち出すビジュアルで世界的に注目されました。
- 反資本主義を掲げながら市場で高額取引される矛盾
- 匿名性が神話を生むと同時に批評性を弱めるリスク
- わかりやすさゆえに「単純すぎる」との批判
- 無許可のストリートアートは違法行為
それでも彼の名は広く知られ、制度に承認されながらも常に批判を浴び続けています。まさにFNAとBNAの両義性を体現する存在です。
彼に対する「賛否両論」の「賛」には、古くはネズミ小僧のような義賊的なものに対する「否をかかえた賛」というギリギリの境界線上にあることも特徴です。「否をかかえた賛」~鼠小僧からバンクシーまで続くアウトローの揺さぶり
最近もロンドン高等法院の壁画が「器物損壊」とされ、警察が捜査に乗り出しました。美術館に収蔵されれば数億円の価値を持つ作品が、街頭では即座に「犯罪」とされる――その矛盾は、彼が境界線上に生きていることを示しています。
SNSと未成熟な承認
SNSは新しい承認装置となり、猫の写真やAI画像までもが爆発的に拡散されます。
けれど現状は「流行に流されやすい」「フェイクや操作に弱い」「数だけが目的化する」など未成熟です。
将来的に批評性と透明性が整えば、新しい合意形成の仕組みになる可能性があります。
例えば、SNSを通じて美術館が大衆との接点を模索する動きは、アートワールドの変化を示す象徴的な試みです。
格付けの固定観念
「アート=最上位の創造」というイメージを支えてきたのは、エリートによる格付け、アートワールドの枠組みです。これが「理解できない自分が悪いのか」「こんなものが最上位か」という戸惑いや反感を生みました。
工芸やデザイン、漫画、インテリアアートは「大衆が感性でわかる=ポップ=下位」とされがちですが、それは表現の本質ではなく、文脈に持ち込まれたときの偏見にすぎません。
メッセージ性と分断
現代アートは政治的テーマを扱うことが増えています。しかし「大きなメッセージほど良い」とは限りません。歴史的に芸術が戦争礼賛に加担した例もあります。
重要なのは、多様性を分断に結びつけるのではなく、相互理解へと動かせる力を持つかどうかです。それこそが社会の幸福に貢献するアートの条件ではないでしょうか。
アートワールドの自己変革の動き
ダントーは「制度がアートを決める」と主張したわけではありません。
彼が言う「アートワールド」とは、アートを理解するための理論的な文脈や知的な共同体を指しており、
「美術館や批評家が上から評価を決める制度」ではありません。
しかし現実の世界では、ダントーの意図とは異なり、アートワールドが一種の“閉じた世界”として機能してしまい、
アートエリートだけが作品を評価し、一般の人々が置き去りにされるという状況がアートと大衆の分断を生みました。
たとえば、アートフェアでは数億円単位の作品が取引され、美術館では専門家によるキュレーションが重視される一方、
来場者が「なぜこれがアートなのか」を理解できないまま通り過ぎるケースも少なくありません。
こうした「アートと大衆の分断」は、近年では課題として認識され、
アートフェアがトークイベントやワークショップを通じて市民との対話を増やす試みや、美術館が地域コミュニティや子ども向けプログラムを導入するなど、「アートワールド」をより開かれた空間にしようとする自己改革的な動きが広がっていますが、まだまだ、「現代アート」という分類ラベルを完全に剝がし切って開放されたとまでは言えない、その様々な試みの途上にあると思われます。
NOT ARTという実験
このサイトでは、あえてすべてを「NOT ART」と呼ぶ試みをしています。
- 「アート=最上位」という序列的な固定観念から外す
- 「こんなものがアートか?」という不毛な議論を入口で消す
- ラベルを外したときに見える価値を探る
「NOT ART」という呼称は、印象派やポップアートのように、蔑称から始まり文化を変えてきた歴史の延長にあります。
感性至上主義でもなく、知性至上主義でもない、第三の道を探す旅です。
ラベルを揺さぶる試み自体が、コンセプチュアルアート的な実験なのです。
100年後への提言
現実に「現代アート」という呼称を即座に置き換えることはできません。制度や市場が依存しているからです。
それでも「NOT ART」という旗を掲げることは、未来への補助線であり、社会とアートの関係を問い続ける長期的な実験となります。
批判との対話を避けず、むしろ「あなたの言う通りだ」と受け入れた上で議論を始める。これはデュシャン《泉》へのオマージュでもあります。自己否定を出発点に置くことで、既存の枠組みの外から俯瞰する試みです。
ちょっと現実の話
正直、この物価高の中で「アートとは何か」なんて議論、世の中の大半の人からすれば「そんなことより卵の値段の方が大事だろ」と一蹴されるのかもしれません。
実際、その通りです(笑)。
けれども、だからといって文化や表現について考える余地まで削ってしまったら、日々の暮らしはただの消耗戦になってしまう。そう考えると、こんな小さな言葉の実験にも、案外バカにならない意味があるのでは、いや、あって欲しいというささやかな願いで書いています。
実際には権威ゼロのこのサイトで主張しても全くの無力です。
そしてここで述べたことは、結論ではなくあくまでも筆者個人の思考の過程をご紹介してるに過ぎません。
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現代アートの課題は一面的には語りきれません。
特にアメリカで深まる社会の分断と結びつけて考えると、新たな視点が見えてきます。
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