バンクシーとラッセン~双方の絵にまさかの共通点発見

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実は似ている!?「ヤンキー受け」の視点

バンクシーとラッセンのアート:その評価と「ヤンキー受けする」視点

賛否が渦巻くストリートアートの巨人、「バンクシー」ですが、その批判の中には「アートとしてはたいしたことがない」というビジュアルの技巧面での批判です。
そこで、バンクシーのビジュアル面について個人的にいくつかの視点から考察していたところ、バンクシーとラッセンのアートへのまさかの共通点を発見しました。
バンクシーとラッセンは、アート界において非常に異なる評価を受けていますが、実はある視点からみれば、同じことが言えるのです。

両者のアートは、深いアートファン層からの評価というよりも、一般大衆に広く支持され、特にインテリアアートとして消費されることが多い点で共通しています。
つまり、この視点から見ると、バンクシーのアートも、ラッセン同様に「ヤンキー受けする」要素が強いといえるということです。
両者のアートのビジュアルやメッセージ性には、一見すればわかるような大きな違いがあるにも関わらず、なぜ、どちらもインテリア的に広く大衆に受け入れられている(ラッセンは過去の一時期の日本での人気ですが)のか、その背景を探ってみました。

ラッセンのアートとその衰退

かつて日本で非常に高い人気を誇ったラッセンですが、現在ではその人気はかなり衰退しています。
ラッセンのアートは、美しい海洋や自然のテーマを描き、華やかな色使いと幻想的なビジュアルで一世を風靡しました。しかし、「絵画商法」という手法への社会的批判や、「楽観的で浅い」といった批判も増え、アート市場における需要は急激に減少しました。
日本のバブル経済時代や消費文化に合致し、一時的には非常に高い評価を得ましたが、現在ではインテリアアートとしての需要に限られ、かつての人気は過去のものとなっています。
また、ラッセンやヒロヤマガタ問題、として論じられる際に、よく使われるワードが「ヤンキー」という和紙英語の表現です。
(なお、日本における和製英語の「ヤンキー」には、「昭和の時代の不良少年」的なニュアンスがあり、けっして肯定的な用語とは言えませんので、「大衆=ヤンキー」と表現すると、アートのエリートに対する侮蔑的なニュアンスを感じる人もいるかもしれません。
しかし、ここでは、そうした侮蔑的な意味ではなく「アートの歴史やコンテクストに詳しくない、好き嫌いの感覚だけでアートを楽しむ人」という意味での象徴的な言葉として使うので、ご容赦ください。)

バンクシーのアートとその評価

バンクシーのアートは「視覚的な美しさ」ではなく、「視覚的なわかりやすさ」「面白さ」にあります。
そして、アート的にはあまり評価されないバンクシーですが、個人的には、実はそのビジュアルセレクトにおいて、天才的なセンスを感じます。
バンクシーは、社会的・政治的なメッセージをシンプルで直感的に理解できる形で表現することに長けています。
殆どの作品がアートというよりもイラスト的ともいえるものですが、その視覚的要素の選択は、単なるイラストとしての表現を超えて、見る者に強い印象を与えるメッセージ力を持っています。
バンクシーは、作品を展示する場所や文脈を巧みに選び、その場所と作品との相乗効果を生み出すことで、「現代アート」としての影響力を最大化しています。

そのビジュアルは、多くの腕のいい職業イラストレーターであれば、一見すると誰でも描けそうに見えるため、アートとしては大したことが無いといった批判にもつながっています。
しかし、もし本当に凡庸なイラストとしてのビジュアルに過ぎないなら、ここまで世界的にはならなかったのではないかと感じます。
個人的には、バンクシーの作品には「ヤンキー受けするツボ」を抑えた微妙なポージングや配置などに、天才的なセンスが光っていると感じます。
そして、その絵を描く場所選びも含めて、「公共空間を使ったインスタレーション」とも呼べる内容を持っていると言えます。

具体的に言うと、彼がセレクトする絵柄、その絵柄の配置バランス、シンプルな中に選ばれる色、ポーズ、そしてその他の微妙な部分にも、人気の秘密がある気がします。
インスタレーション的なプロデュース力とディレクションに加えて、びじゅアル面の、これらの細部における絶妙なセンスが、バンクシーの作品が多くの人々に響き、支持され続ける理由の一つだと感じます。

ラッセンとバンクシーの「インテリアアート」としての共通点

ラッセンとバンクシーは、視覚的に印象的で親しみやすい作品を生み出す点で共通しています。
かつてラッセンのアートはその美しい風景画として、インテリアアートとして非常に人気が高かったですが、現在ではその需要は減少しています。
一方、バンクシーもその視覚的なわかりやすさや面白さが、多くの人々に受け入れられ、インテリアアートとして消費されていますが、バンクシーの作品は、その反体制的なメッセージやアイロニーがダイレクトに伝わります。
しかし、そのメッセージ性よりも、ビジュアルがインテリアにマッチしやすいという面を持ち合わせているために、特に若者や都市文化に共鳴し、その「わかりやすさ」が多くの人々に支持されて、バンクシーの複製品が人気を呼んでいます。
バンクシーのアートのビジュアルは、シンプルモダンな少し寂しい感じの現代的なインテリアなどにも、ちょっとしたアイロニーある変化を加えるのにはもってこいの絵柄です。
反体制的でユニークなビジュアルであるにもかかわらず、ある意味「キッチュ(低俗で俗悪、から転じて、カワイイ的な意味で)」でシンプルであり、スーパーリアリズムのラッセンのビジュアルとは真逆です。

ただし、「ヤンキー受け」しているという点で共通しているとはいえ、日本の昭和の時代の大衆が求めたインテリアのセンスと、今の時代にウケるものは同じではなく、時代とともに変化したと言う見方もできます。
バンクシーが日本でも受けているのは、バンクシーがマッチするインテリアの住宅などが増えているからかもしれませんが、この点は不明です。

ラッセンとバンクシーの受け入れの違い

ラッセンのアートは、日本を中心に一時的に流行し、その美しいビジュアルが消費文化と合致したため、大きな人気を得ましたが、現在ではその人気は急激に落ち着いています。ラッセンのアートは主にインテリアアートとして消費され、その影響力はもはや過去のものです。

対して、バンクシーの作品は、世界中で受け入れられ続けています。彼のアートは、社会的・政治的メッセージが強く、普遍的な問題に取り組んでおり、その影響力は国境を越えて広がっています。バンクシーの作品は、単なるアートとしてだけでなく、文化的なアイコンとしても認識され、長期的に評価されています。

100年後の「ヤンキー受けするアート」の評価

ラッセンとバンクシーのアートが「ヤンキー受けする」という点で共通しているのではないか、という筆者の独自視点で記事を書いてみましたが、100年後にこうしたアートがどのように評価されるかは、今生きている私たちには誰にも分かりません。
しかし、それがどう評価されるのかを考えること自体がとても興味深いことです。現代アートがどのように歴史に名を刻むのか、また、社会的メッセージを込めた作品が未来のアート史にどのように位置付けられるのか、その時が来るまで私たちは知る由もありませんが、今後の評価に対する期待を抱かせるテーマであることは間違いありません。

まとめ

ラッセンとバンクシーのアートは、視覚的なアプローチや評価において大きく異なりますが、どちらも広く一般大衆に受け入れられており、特にインテリアアートとして人気があります。
ラッセンはその美しいビジュアルが評価され、過去には非常に高い人気を得ましたが、現在ではその影響力は衰退しています。
一方、バンクシーは「視覚的なわかりやすさ」と「面白さ」、そして「ビジュアルのセレクトにおける天才的なセンス」が広く支持され、世界中でインテリアアートとしても受け入れられています。
バンクシーのアートは、単なる「上手いイラスト落書き」を超えた社会的メッセージを持ち、また、その「ヤンキー受けしやすい、わかりやすさと巧みなビジュアルセンス」こそが多くの人々に共鳴し、今もなお強い影響力を持ち続けている秘密ではないでしょうか。

 


現在、「渋谷ストリームホール」で行われているストリートアート展ではバンクシーの作品の部屋がメイン展示として、多くのストリートアートを鑑賞することができます。

Stream of Banksy Effect~ストリートアートの進化と革命展 – Street Art (R)Evolution –
【期間】2025年1月22日(水)~ 3月23日(日)
【会場】渋谷ストリームホール

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