はじめに ― 「現代アート」はなぜ批判されるのか
「現代アート」と呼ばれるものには、常に批判がつきまといます。
「よくわからない」「値段だけが高い」「技巧がなく、ただの日用品にしか見えない」。
こうした声は、実際に多くの展覧会やSNSで繰り返し聞かれます。
そして、その結果として「現代アートと大衆との断絶」が深まってきました。
Artstylicでは、この断絶を埋めるために、あえて「NOT ART」という言葉を使います。
つまり、もともとはアートではないものが、展示や解釈=キュレーションを通じてアートとして立ち上がる現象を指す呼称です。
そして、この視点から20世紀以降のアートを NOTART 1.0〜4.0 というフェーズに整理しました。
これは、他のアート専門サイトとは異なる多様なクリエイションを横断し、美術館の展示室に限らず、建築、音楽、映画、思想、さらにはデジタル時代のAIまでを見渡すための新しい地図、Artstylic独自の「キュレーション」でもあります。
「現代アート」という言葉の歴史
まず前提として、「現代アート」という言葉自体の歴史を整理しておきましょう。
欧米では「modern art(近代美術)」に続くものを「contemporary art」と呼びました。ピカソやマティスらのキュビスム、カンディンスキーら抽象絵画を経て、戦後以降の作品群を「現代のアート」と総称したのです。
日本では戦後、国立近代美術館の活動や美術評論家による翻訳を通じて「現代美術」という語が普及しました。1970年の大阪万博以降、「現代美術」という言葉は一般紙でも多く用いられるようになります。
「コンセプチュアル・アート(概念芸術)」と混同されがちですが、これは1960年代以降に生まれたひとつの潮流であり、現代アートの全体を指す言葉ではありません。
つまり「現代アート」は、単なる時代区分ではなく、作品単体よりも文脈や社会性、解釈のネットワークを重視する芸術観を表しています。
感性と知性のあいだに立つ現代アート
「感性」と「知性」の分断
伝統的な美術は「美しい」「迫力がある」といった感性的な共感を入り口にしてきました。
しかし現代アートでは、社会的な問いや文脈、批評性が評価の基準となり、「感性の心地よさ」だけを志向すると「浅い」とみなされがちです。
そのため知的な解釈が必須となり、感覚的に楽しめない人にとっては疎外感を生みます。
結果、「現代アートは何でもあり」という感性至上主義的な誤解を持たれたままそっぽを向かれる、という分断につながりがちなのです。
大衆からの乖離
批評性・文脈性に依拠すればするほど、専門的な言語と理論に寄りかかることになり、結果として 「わからない人は置いていく」構造 が生じます。
一方で「わかりやすさ」を追求すると、今度は「ただの感性表現=軽い」と批判される。
このジレンマが「現代アートは難解すぎる」「閉じた世界だ」という印象を強めてきました。
矛盾を乗り越える試み
実際には、この矛盾を乗り越えようとする動きも現れています。
参加型アート:観客の体験や感覚そのものを作品の一部に組み込む(例:インスタレーションやワークショップ型)。
SNS時代の拡散:視覚的インパクトやユーモアを入り口にしつつ、背景には批評的文脈を隠しておく。
教育的アプローチ:作品解説やアーティストトークを充実させ、「感性から知性へ」段階的に橋をかける。
Artstylicの別の記事でも書きましたが人間の脳というのは、「感性は知性で揺らぐ」ものであり、両者は不可分の関係にあり、どちらかだけで評価する、ということ自体がナンセンスなのです。
なぜ「NOT ART」と呼ぶのか?
現代アートは「感性だけでは不十分」と言いながら、知性に偏ると大衆から離れてしまうという矛盾を抱えています。
実はこの緊張関係そのものが、現代アートの特徴とも言えるでしょう。
つまり、「感性と知性の間に立つこと」こそが、現代アートに課された宿命なのです。
そして、Artstylicが「現代アート」というラベルをつけるものをあえて 「NOT ART」 と呼びかえるのは、この矛盾を直視し、「大衆的な感性とアートのエリート層の知性の境界に立って橋を架ける」ための試み でもあります。
「NON」 ARTから「NOT」 ARTへ
この記事や、Artstylicのいくつかの記事では「NOT ART」という言葉を、単に「ART以外のすべて」という意味では使いません。
それは、アート(ART)と非アート(NON ART)の境界に立ち、文脈によって「現代アートというラベルをつけた作品」として立ち上がってきたものを指します。
NOT ARTは、多くの場合、そのままでは一般的に「現代アートというラベルをつけたクリエイション」としては機能せず、物体・出来事・データにとどまります。
しかし展示や批評、観客の解釈といった文脈を与えられることで、「現代アート」として見なされ得る契機、ラベルが付くのです。
ここで重要なのは、「NOT」と「NON」の違いです。
NOT ART は非アート、下記の「NON ART」が文脈により「現代アート」というラベルをつけられたクリエイションに転換したものを指します。世の中的なラベルは「現代アート」ですが、そう呼ばれない「境界の端」の外のものまで含みます。
(例:デュシャンの便器、ウォーホルのスープ缶、SNSに投稿された日常の断片)NON ART はアート性そのものを欠いている、あるいは必要としない、意図しない、基本的にはアートとして読まれる契機を持たない領域です。
(例:取扱説明書、税務書類、機能のみを目的とした工業製品)
したがって、この記事が扱う対象は大きく三つに分けられます。
ART(古典的・伝統的な芸術)/NOT ART(境界に立ち文脈でアートとなり得るもの)/NON ART(思想や主張の文脈を欠いた、あるいはその必要が無いモノや情報、行為等すべて)。
Artstylicが注目するのは、このうち NOT ART の領域です。
なぜならここにこそ、「現代アート(というラベルをつけたくなるもの)」とキュレーションの力がもっとも鮮明に現れるからです。
「NON ART」と「NOT ART」という新たな用語でこの記事を書いたため、最初はかなり違和感があると思いますが、「現代アート」を「ART」として理解できない、こんなものは「アート」ではない、という方ほど、しっくりくる、腑に落ちるのではないでしょうか。
キュレーションとは何か
同時に、すべての作品紹介がキュレーションになるわけではありません。
単なる情報提供やカタログ的な解説は「紹介(情報提供、情報集約)=NON ART」にとどまります。
キュレーションが成立するのは、
作品に文脈を与え、新しい意味を生み出すとき
観客体験を意識的に構成するとき
批評性や問いを伴い、「なぜ今これを提示するのか」が示されるとき
つまり、「キュレーション」とは、単なる説明、情報提供ではなく「意図をもって編集された視点の提示」です。
そしてその編集行為こそが、「NON ART」を「NOT ART」に転換し「現代アート」というラベルを付けられる契機を開くのだと思うのです。
この記事も、単なる現代アートの歴史の情報紹介ではなく「NOT ART」の歴史と未来を示すキュレーションを目指したものです。デュシャンと、ビートルズ等を同じ記事の中で構成したのも、他の現代アートの専門サイトや専門書とは異なる独自視点のキュレーションを目指した結果です。
ただ、実際にこうして記事にしてみると、やはり、分野別にラベルを付けて深堀りしないと、収拾がつかなくなる、というデメリットを如実に感じる結果となってしまいました。
「現代アート」に対して「NOT ART」というラベルを使う大きな意図だけでも伝われば幸いです。
以下で掲載した作家等は、「NOT ART」の境界に立った視点で大きな流れを説明しやすいように選びましたが、網羅はできませんので、偏りがありますし、取り上げるべき重要な作家が漏れている、という部分が多分にありますので、その点、ご容赦ください。
ここから、各分野の専門書やサイトをご覧いただいて、「NOT ART」への知見を広げていただければと思います。
(キュレーション、というのは、なかなか難しいものだと実感します。)
NOTART 1.0 ― レディメイドと反芸術(1910s〜1930s)
デュシャン《泉》:美術史をひっくり返した便器
1917年、ニューヨーク。アンデパンダン展という「誰でも出品できる展覧会」が開催されていました。
そこに突如として現れたのは、ただの男性用小便器。作者名は偽名「R. Mutt」。
会場側は「これは芸術ではない」と拒絶しました。
しかし、デュシャンはこの事件で大きな問いを突きつけました。
「芸術を芸術たらしめるものは何か?」
技巧でも素材でもなく、展示される文脈や観客の解釈こそが芸術を成立させる――。
その後、この《泉》は写真に撮られ、美術雑誌『The Blind Man』で論争が巻き起こり、やがて「20世紀アートの最重要作品」と呼ばれるようになります。
ただの便器=NON ARTが、展示空間に置かれた瞬間に「アート」へと転換したのです。

ダダイズム:キャバレー・ヴォルテールの夜
第一次世界大戦中、スイス・チューリッヒの小さなカフェ「キャバレー・ヴォルテール」に芸術家や亡命者たちが集いました。
彼らはピアノを叩きながら意味のない言葉を叫び、新聞紙を引き裂き、奇怪な仮面をかぶって踊りました。
これがダダの始まりです。
「芸術に意味を求めること自体が戦争を生む構造の一部だ」と彼らは考えました。
トリスタン・ツァラはナンセンス詩を叫び、ハンス・アルプは偶然に任せて紙片を落とし、それを「作品」と呼びました。
観客は怒号を飛ばし、笑い、時には暴力沙汰にまで発展しました。
しかしその混沌の中から、「芸術の権威を破壊する」という新しい芸術観が生まれました。
まさに「反芸術=anti-art」、NON ARTをNOT ARTに変える実験でした。
フルクサスとオノ・ヨーコ:日常を作品に
半世紀後の1960年代、ダダの精神を引き継ぐようにフルクサス運動が登場します。
「フルクサス(Fluxus)」とは「流れるもの」という意味。
彼らは音楽、パフォーマンス、日用品を組み合わせ、日常と芸術の境界を解体しました。
オノ・ヨーコの代表作《グレープフルーツ》(1964)は、一冊の小さな本です。
そこには「雲を見上げなさい」「椅子を使って空に触れなさい」といった短い言葉が並んでいます。
それを読む人が実際に行為をしてもよいし、頭の中で想像するだけでもよい。
作品は「観客の参加」によって初めて完成します。
後にジョン・レノンと出会ったオノ・ヨーコは、この手法を音楽やパフォーマンスに広げ、ベッド・イン・パフォーマンスを通じて「平和運動」をアートにしました。
ここでも「NON ART=日常や行為」が、キュレーションによってNOT ARTとなるのです。
女性であったことやビートルズを解散に追い込んだ元凶、のように言われて、前衛アーティストとしての活動が正しく評価されてこなかった彼女ですが、今の時代になって、ようやく、時代の方が彼女に追いつき、近年、再評価されつつある、というのも、その先見性の鋭さゆえでしょう。
ある意味、そこに惹かれたジョンレノンも、凄いというかさすが、の夫婦です。
ジョン・ケージ
ジョン・ケージ(John Cage, 1912–1992)は、20世紀アメリカを代表する前衛音楽家。
代表作《4分33秒》(1952)では、演奏者が一音も鳴らさず、会場の環境音そのものを音楽として提示しました。
「偶然性」や「不確定性」を重視し、キノコ採取や禅の思想から強い影響を受けています。
従来の音楽観を根底から覆し、日常音や沈黙をも芸術に組み込んだ人物です。
現代音楽だけでなく、現代アートやパフォーマンスの領域にも大きな影響を与えました。
建築と日常の美学
NOTART 1.0の同時代には建築でも同様の動きがありました。
ル・コルビュジエは「住宅は住むための機械だ」と定義し、シンプルで機能的な建築をデザインしました。
それまで「芸術作品」とは程遠いとされてきた住宅や都市計画が、「美学を持つもの」として再定義されたのです。
また、ヴァルター・グロピウスが創設したバウハウスでは家具や工業製品が芸術と一体のものとして扱われました。
工場で量産される椅子やランプも、「デザイン」という文脈の中で芸術に接続されていったのです。
ル・コルビュジェと並んで、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエといった3大建築家等が、近代建築に新たな地平を切り開いた時期でした。
NOT ART1.0まとめ
NOTART 1.0とは、「ただのモノ」「日常の行為」「工業製品」といったNOT ARTが、展示や解釈を通じてアートへと変わった時代でした。
この延長線上に、すべての現代アートの始まりがあります。

NOTART 2.0 ― コンセプチュアルと社会彫刻(1960s〜1970s)
概念を作品にする:ジョセフ・コスース《椅子の一と三》
1965年、ジョセフ・コスースはニューヨークの小さなギャラリーに、一脚の椅子を展示しました。
その横には椅子を撮影した写真、さらに「chair(椅子)」の辞書的定義が並べられていました。
タイトルは《椅子の一と三》。
観客は混乱しました。
「どれが作品なのか? 実物か、写真か、それとも言葉か?」
この問いこそが作品でした。
アートは物質ではなく、概念そのものに宿る。
NON ARTであるはずの辞書の一文や、写真といった複製物が「作品の一部」として機能する。
ここにコンセプチュアル・アートの核心がありました。
ソル・ルウィット:アイデアが芸術を決める
同時期に活動していたソル・ルウィットは、「芸術作品とはアイデアであり、制作は必ずしも作家自身が行う必要はない」と宣言しました。
彼の《ウォール・ドローイング》シリーズは、作家が壁に描くのではなく、手順を指示したマニュアルを展示し、それに従って他人が描きます。
つまり作品の本体は「指示=概念」にあり、実際に壁に描かれる線はその具現化に過ぎません。
この考え方はのちの「プロジェクト型アート」や「参加型アート」の先駆けとなり、現在のAIアートやNFTにもつながっていきます。
ヨーゼフ・ボイスと「社会彫刻」
ドイツのヨーゼフ・ボイスは、20世紀アートの中でも特異な存在です。
彼はフェルトや蜂蜜を使った作品を制作しましたが、より大きな視点で「社会そのものを彫刻する」と考えました。
代表作のひとつは、1982年のドクメンタ7(ドイツ・カッセルで5年ごとに開かれる国際展)で行った《7000本の樫の木》。
会場に7000本分の玄武岩を積み上げ、参加者が一本の樫を植えるたびに石が一本ずつ取り除かれていく。
最終的に街全体に樫の木が植えられ、都市の風景そのものが「作品」となりました。
ここでは、アートは美術館に閉じ込められるものではなく、人々の共同作業と社会の変化そのものになっています。
NON ARTであるはずの「植樹」という行為が、NOT ARTとして立ち上がった瞬間でした。
岡本太郎と社会的エネルギーの爆発
同じ1960〜70年代、日本では岡本太郎が「芸術は日常にこそある」という逆転劇を実践しました。
彼の代表作《太陽の塔》(1970, 大阪万博)は、高さ70メートルを超える巨大造形物です。
それは建築でも彫刻でもない、祝祭的なシンボルであり、時代の記憶を抱え込んだ社会的装置でした。
岡本は「芸術は爆発だ」という言葉に象徴されるように、芸術を特権的なものから解き放ち、
人々の暮らしや公共空間に「生命のエネルギー」として解き放とうとしたのです。
ここでも、NON ART=建築的構造物や社会的記号が、文脈に置かれることでNOT ARTとして立ち上がりました。
岡本の思想は「芸術は大衆のものだ」という強い信念に基づいており、
その実践は日本独自のコンセプチュアル・アートの姿を示したといえるでしょう。
アンディ・ウォーホルとポップアートの逆転劇
同じ頃、アメリカではアンディ・ウォーホルが「消費社会の象徴」をアートに持ち込みました。
《キャンベルスープ缶》(1962)は、スーパーで売られていた日常品をそのまま描いたものです。
《マリリン・モンロー》の連作では、スターの顔をシルクスクリーンで繰り返し印刷し、大量生産と死のイメージを結びつけました。
ウォーホルのアトリエ「ファクトリー」には、音楽家、俳優、ファッションデザイナーが出入りし、アートはカルチャーそのものと一体化していきました。
NOT ART=商品やセレブの写真が、文脈に置かれることでアートに変わる。
この手法はのちの広告、デザイン、SNSカルチャーに大きな影響を与えています。
建築と都市のインスタレーション化
日本でも、建築がアートのように扱われる流れが出てきました。
丹下健三が設計した《広島平和記念資料館》(1955)は、戦争の記憶を建築によって語る装置でした。
磯崎新は「建築は廃墟から始まる」と語り、都市そのものを文化的インスタレーションと見なしました。
「NON ART=都市計画」や「NON ART=記念碑的建築」が、アートと同じ文脈で読まれ「NOT ART」になったのです。
映画・音楽・思想との交差
NOTART 2.0は美術館に限らず、他のジャンルにも広がりました。
黒澤明:映画《羅生門》《七人の侍》は、人間の普遍的テーマを描き、映画を「人類の倫理的装置」へと昇華しました。
スタンリー・キューブリック
《2001年宇宙の旅》:映像・音楽・デザインを統合した総合芸術。観客は映画館で没入的インスタレーションを体験。《博士の異常な愛情》:冷戦という社会現象=NOT ARTをブラックコメディに変換。軍事と政治を風刺し、現実批評としてのNOT ARTを成立させた。今の時代、改めてこの映画を観ると「真の恐怖」を感じる。武満徹:現代音楽と映画音楽を横断し、音と映像を融合させた。
ボブ・ディラン:フォークを詩と政治に結びつけ、ノーベル文学賞を受けたことで「音楽は文学でもある」と再評価された。
フィリップ・K・ディック:《アンドロイドは電気羊の夢を見るか?》は「人間と機械の境界」というテーマを提示し、『ブレードランナー』を生んだ。
ダナ・ハラウェイ:《サイボーグ宣言》で「人間・機械・動物の境界は幻想だ」と語り、ポストヒューマン思想を打ち立てた。
これらはいずれも「NON ART=文学や科学思想」をアート的に機能させる試みでした。(「文学」はそれだけで既に「NOT ART」なので、より「ART」の境界に近づけるという試みです。)
NOT ART2.0まとめ
NOTART 2.0は、物質から解放されたアートが「概念」「社会」「思想」を直接扱うようになった時代です。
つまり、「考えること」や「社会を変えること」そのものがアートとして認知されはじめたのです。

前半まとめ ― 「キュレーション観の転換」の始まり
NOTART 1.0〜2.0は、アートを「物質」から「概念・社会」へと拡張した時代でした。
この過程で、古くから存在していた「キュレーション」という営みは、単なる収集や管理を超え、アートそのものの成立条件を規定する行為へと転換しました。
20世紀以降のアートは、まさに「キュレーションなしには存在し得ない」芸術へと変わったのです。
NOTART 3.0 ― 消費・拡散・体験の時代(1980s〜2000s)
草間彌生《無限の鏡の間》:光に包まれる終わりなき体験
美術館の扉をくぐると、そこは無数の小さな電球と鏡に囲まれた部屋。
観客が一歩足を踏み入れると、天井も床も壁もすべてが鏡で反射し、無限に広がる光の宇宙が出現します。
これが草間彌生の代表作《無限の鏡の間(Infinity Mirror Room)》です。
日本人作家でありながら、ニューヨークを拠点に活動していた草間は、自身の幻視体験を作品化しました。
観客は作品を「鑑賞」するのではなく、「没入」する。
美術館に行列ができ、入場者はわずか30秒〜1分という短い時間で交代します。
それでも人々は数時間待ちの列に並び、この「体験」を求めるのです。
ここでは、NON ART=鏡や電球といった日常的素材が、展示構成と観客の身体的体験によって「アート」へと変わります。
草間作品はSNS時代に最適化され、写真を撮って拡散する行為そのものが作品の延長になっているのです。
バンクシーと「シュレッダー事件」:市場批判のパフォーマンス
2018年、ロンドンのサザビーズで行われたオークション。
バンクシーの代表作《Girl with Balloon(風船と少女)》が約1.5億円で落札された瞬間、額縁の中で「ジジジ…」という音が鳴り響きました。
作品は額縁に仕込まれたシュレッダーにかけられ、下半分が細断されて垂れ下がりました。
会場は騒然。
オークションは混乱しましたが、作品はそのまま「完成作」として再評価されました。
むしろ破壊のパフォーマンス自体が新たな価値を生み、価格はさらに高騰したと言われています。
ここでは、NON ART=破壊行為が、そのまま作品の一部となりました。
そして、アート市場を批判するはずの行為が市場に取り込まれるという逆説的な状況も浮き彫りになりました。
村上隆と「スーパーフラット」:オタク文化の世界戦略
日本から世界に飛び出したもう一人の巨匠が村上隆です。
彼は「スーパーフラット」という理論を打ち出しました。
アニメやマンガの平面的な表現を肯定し、それをそのまま大規模なアート作品に昇華したのです。
代表作《DOB君》は、巨大でカラフルなキャラクター。
ルイ・ヴィトンとコラボしたバッグは、アートとファッション、消費文化を直接つなぎました。
ここで扱われているのはNON ART=大衆文化・商品ですが、それをアートの文脈に引き上げることで「高級アート」として世界市場に流通するようになったのです。
奈良美智の「無垢な怒り」
奈良美智の絵に登場するのは、無垢な子どもや犬。
しかしその目は鋭く、挑戦的な視線を投げかけています。
「かわいい」の中に「怒り」や「孤独」を秘めたその表情は、90年代以降の若い世代に強い共感を呼びました。
NON ART=子どもの落書き風の絵が、文脈を与えられ、現代の孤独や社会批判の象徴となったのです。
ダミアン・ハースト《サメ》:死と市場
イギリスのヤング・ブリティッシュ・アーティスツ(YBAs)の中心人物ダミアン・ハーストは、ホルマリン漬けのサメを展示しました。
タイトルは《The Physical Impossibility of Death in the Mind of Someone Living(生きている者の心における死の物理的不可能性)》です。
水槽の中で静止する巨大なサメは、鑑賞者に強烈な死の存在を突きつけます。
同時に、この作品は市場で数十億円の値が付き、アートとマネーの関係を象徴するものとなりました。
NON ART=死体そのものが、「NOT ART」、いや、ここではむしろ「ART」というラベルをつけられて売買される。
ここに現代アートの逆説的な姿が表れています。
フランク・ゲーリー《グッゲンハイム美術館ビルバオ》:都市を変えた建築
1997年、スペイン・ビルバオに登場したゲーリー設計のグッゲンハイム美術館は、チタンの曲線がうねる未来的建築でした。
この建築が観光客を呼び込み、街の経済を蘇らせたことは「ビルバオ効果」と呼ばれます。
NON ART=都市再生や観光が、建築を通じてNOT ARTとなります。
ここに3.0の特徴である「体験」が現れています。
安藤忠雄《光の教会》
ただのコンクリートの箱に、十字の切れ込みから光が差し込み内部は何もありません。
観客は無機質な空間に入り、光そのものを体験します。安藤忠雄は独学の建築家で「自然との対話」を徹底して追求しました。打ち放しコンクリートと光、風、雨といったNON ARTを組み合わせ、NOT ART=建材が精神的体験を生む場に転換されます。
これもまさに「NOTART 3.0の体験型空間」の代表例です。
磯崎新《つくばセンタービル》
未来都市のような外観で、都市の廃墟的なイメージを同居させました。
都市そのものがインスタレーションであり、NOT ART=建築がアート的に機能しています。
ピンク・フロイド《The Wall》:巨大な体験装置
1979年のアルバム《The Wall》は、コンサートで実際に巨大な壁を組み立て、最後に壊すという演出で観客を圧倒しました。
音楽は単なる演奏を超え、空間的な「インスタレーション」として提示されたのです。
観客は音だけでなく、光、映像、建築的演出を同時に体験しました。
NON ART=舞台装置が、そのままNOT ARTの体験に転換した例です。
ビートルズ『サージェント・ペパーズ』とアルバムジャケットの革命
1967年、ビートルズのアルバム『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』は、単なる音楽作品を超えたコンセプトアルバムでした。
アルバムジャケットには、ピーター・ブレイクがデザインしたカラフルな群衆のコラージュが描かれています。
歴史上の偉人、作家、俳優、政治家などが並び、音楽と視覚が一体となった文化現象を生み出しました。
NOT ART=商業用アルバムジャケットが、コンセプチュアル・アートとして機能した瞬間です。
デヴィッド・ボウイ:ジギー・スターダストの演劇化
1972年、ボウイは「ジギー・スターダスト」という架空のロックスターになりきり、ステージに立ちました。
彼は現実と虚構を混在させ、自らを一つの「キャラクター作品」として提示しました。
音楽だけでなく、ファッション、演劇、映像が融合した総合的なインスタレーション。
NON ART=人物の演技やキャラクター設定が、そのままNOT ARTに転換された例です。
ブライアン・イーノ & ロバート・フリップ ― 音と環境の再定義
イーノ:《Music for Airports》(1978)でアンビエントを提唱、「環境を変容させる音楽」を構築。
フリップ:《In the Court of the Crimson King》(1969)でプログレッシブ・ロックを総合芸術化。
フリップ本人が「プログレッシブ・ロック」というレッテルを張られることを嫌っているのも「NOT ART」に通ずる気がする。さらに2人は Windowsの起動音 を作曲。日常の機械音=NON-ARTを「詩的な体験」に変換。
→ 音楽と環境音の境界を揺るがせ、誰もが知らぬうちに現代アートに触れる状況を生み出した。
本来、別々に紹介するべき重要人物であるが、「フリップ&イーノ」の作品もあるので一緒にとりあげた。
さらに、デビッド・ボウイの「Heroes」というアルバムは、この3人がコラボしており、歴史的な「NOT ART」な作品かもしれない。
ヒプノシス ― アルバムジャケットをインスタレーションに
ピンク・フロイド《狂気》やレッド・ツェッペリン、イエスなどの名盤ジャケットを手がける。
商品パッケージ=NOT ARTを「音楽の世界観を拡張する視覚的コンセプト」に昇華。
アルバムは「手に持てるインスタレーション」として、音と視覚が統合された総合芸術に。
音楽アルバムのビジュアルを「NOT ART」に変換した逆転劇。
NOT ART3.0のまとめ
NOTART 3.0は「消費・拡散・体験」がアートの条件になった時代でした。
作品はもはや「もの」ではなく、人々が参加し、拡散し、体験する場そのものとなったのです。
長くなったので割愛してしまいましたが、NOT ART3.0の時代は、まだまだ重要な人や作品が山ほどあります。
とても紹介しきれないのですが、一部を列挙しておきます。
特に、音楽や映画などは現代アートの領域では、しばしば「エンターテインメント」として軽視されがちです。
楽しませることを目的とする表現は「浅いもの」とされ、アートの正統から外されてきました。
また、建築は「機能性」必要不可欠なため「デザイン」の延長、として見られることが多い分野です。
しかし、こうした分野の周縁にこそ NOT ART が豊かに存在しています。
大規模なコンサート、スポーツイベントの演出、テーマパークの体験型ショー等、それらは一見「ただのエンタメ」に見えます。
また、建築も機能を追求するだけのようで、実は、そこに「機能以上の何か」を表現したものが多く存在します。
これらは、文脈を与えられれば、そこには批評性や社会的メッセージが潜み、“NOT ART” として立ち上がるものが数えきれません。
つまり、エンタメや日常的なデザイン等の世界は現代アートから切り離された外部なのではなく、むしろ NOT ARTの宝庫 なのです。
それは、音楽のレコードジャケット等に見られるように、「現代アート」というラベルのある作品たちの大きな流れが、その時代のエンタメや日常的な工業製品、建築物等にも大きな影響を及ぼしたはずです。
「現代アート」が嫌われて批判されるものがありながらも、実は、そのコンセプトや主張は、私たちが「現代アート」だと認識していない日常のエンタメや身の回りのデザイン等のクリエイターの共感を呼び、「NON ART」に対しても影響を及ぼして、現実社会が形成されている部分があるのではないでしょうか。
NOTART3.0 追録
現代アート
ジャクソン・ポロック(アクション・ペインティング):少し時代は早いが、体験型アートの源流。
アンゼルム・キーファー:戦争の記憶と素材性を結びつけた大規模絵画・インスタレーション。
カラ・ウォーカー:影絵を用い人種・ジェンダー問題を批評する作品群。
ビル・ヴィオラ:ビデオインスタレーションの第一人者。スローモーション映像で精神性を提示。
マシュー・バーニー《クレマスター・サイクル》(1994–2002):映像と身体を用いた巨大コンセプトアート。
シンディ・シャーマン:セルフポートレート写真でアイデンティティを解体。
建築
レンゾ・ピアノ & リチャード・ロジャース(ポンピドゥー・センター)
レム・コールハース(ポストモダン都市論)
ザハ・ハディド:コンピュータ建築時代の先駆け、曲線と未来的フォルムを導入。
音楽
フランク・ザッパ:音楽と政治風刺・実験を融合、ロックを批評性のあるアートへ。
ローリー・アンダーソン:パフォーマンスとテクノロジーを融合させたアート的音楽家。
ブライアン・フェリー/ロキシー・ミュージック:ファッション・アートとの接続点として影響大。
U2《Zoo TV Tour》(1992):巨大スクリーンや映像操作を駆使した「ライブ=メディアアート」。
マイルス・デイヴィス(エレクトリック期):ジャズを分解し、音響実験と美学を提示。
サン・ラ(Sun Ra):宇宙をテーマに音楽・映像・パフォーマンスを統合=アフロフューチャリズムの源流。
映像・映画
デイヴィッド・リンチ:《イレイザーヘッド》《ブルーベルベット》などでシュルレアリスム的映像を大衆映画に。
ケン・ラッセル:《トミー》(The Whoのロックオペラ映画, 1975)→ロックと映像の総合芸術。
ジョージ・ルーカス/スター・ウォーズ(1977〜):娯楽大作でありながら神話構造と映像革新を持ち込み、世界的文化装置に。
リドリー・スコット:《ブレードランナー》(1982)→SF映画を哲学的・視覚芸術的体験に昇華。
宮崎駿/スタジオジブリ:《風の谷のナウシカ》(1984)以降、アニメを世界的な芸術言語に。
NOTART 4.0 ― AIと批評の時代(2020s〜)
生成AIの衝撃 ― 誰もが「創造者」になる時代
2022年、Stable Diffusion や Midjourney が一般公開されました。
それまで専門家やプログラマーしか扱えなかったAI画像生成が、誰でも数秒で作品を生み出せる時代に突入したのです。
テキストで「sunset over futuristic Tokyo, cyberpunk style」と打ち込めば、まるでプロのイラストレーターが描いたかのような画像が生成されます。
ここで重要なのは、プロンプトを書く=キュレーション になり得る行為だという点です。
AIに指示する言葉の選び方によって、出力は大きく変わります。
つまり制作とキュレーションが一体化し、「思考と主張を込めるような文脈を作る」というやり方次第では、誰もが「NOTART 4.0の作家」になれるとも言えるのです。
Refik Anadol《Unsupervised》:MoMAをデータで満たす
2022年、ニューヨーク近代美術館(MoMA)のロビーに、巨大な映像インスタレーションが登場しました。
Refik Anadol の《Unsupervised》です。
AIにMoMA所蔵の数十万点の作品データを学習させ、それを絶えず変化する3D映像として空間に投影。
色と形が流動し、抽象画や彫刻の断片が次々と溶け合い、観客はデータそのものの「夢」を体験します。
NON ART=数値データが、AIとキュレーションを通じてNOT ART空間をつくり出す。
ここにNOTART 4.0の象徴的な姿があります。
ダントー理論の再来
1980年代、哲学者アーサー・ダントーは「芸術を芸術たらしめるのは理論である」と述べました。
デュシャンの《泉》を例に、物体が芸術になるのは「芸術世界の理論に位置づけられるからだ」と。
AIアートの時代、同じ問いが再び浮上しています。
AIが生成した画像は、単なる「NON ART=アルゴリズムの出力」です。
しかし、美術館で展示され、批評家が語り、観客が意味を見出した瞬間、それは「NOT ART」となる。
つまりAI作品もまた、キュレーションと理論によってNOT ARTに変わる のです。
アイ・ウェイウェイ:デジタル社会の社会彫刻
中国出身のアーティスト、アイ・ウェイウェイはSNSを駆使して政治批判を行ってきました。
震災被害の犠牲者名を並べたインスタレーション、難民危機を可視化する映像作品。
そして、それらはツイッターやInstagramで拡散され、世界的な共感を呼びます。
ここでは、NON ART=社会的な出来事が、デジタル空間で「共有されること」自体によってNOT ARTに変わります。
彼の活動は、ボイスの「社会彫刻」がインターネット時代に進化した形とも言えるでしょう。
SNS文化と「日常のキュレーション」
私たち一人ひとりも、知らぬ間にNOTART 4.0に参加しています。
Instagramでランチを撮影し、ハッシュタグを付けて投稿する。
X(旧Twitter)で出来事を写真と一言でシェアする。
これらはすべて「NON ART=日常の断片」を、文脈を与えて「NOT ART」として公開するキュレーション行為とも言えますが、もちろん、同じインスタグラムを見ても、キュレーションとしての意図が強く感じられるものもあれば、単なる「NON ART」の画像であって、個人的な記録に過ぎない「情報の伝達、公開」の域を出ないものが殆どかもしれません。
しかし、そうした人でも、この記事を読まれて「NOT ART」への転換を意図した瞬間から、単に「イイネ」や「フォロワーを増やしたい」という目的から、アート・キュレーションを強く意識したアップ画像の構成に変わるかもしれません。
バンクシーの壁画や草間彌生のインスタレーションと同じように、SNS上の画像は「いいね」や「シェア」を通じて意味を獲得し、NOT ART的に機能するメディアなのです。
AI音楽・バーチャルライブ ― 境界を超える体験
音楽も同じ潮流を迎えています。
AIによって生成された楽曲、ボーカロイドによる歌声、そしてバーチャル空間で開催されるライブ。
観客はヘッドセットを通じてステージに入り込み、リアルとデジタルが融合した「体験型NOT ART」に参加します。
ここでは、NON ART=データやアルゴリズムが、観客の身体を介してNOT ARTに変わるのです。
NOTART 4.0の特徴
制作とキュレーションの一体化:プロンプトを書くこと自体が創作行為。
社会的拡張:SNSでの拡散が作品の一部になる。
AIとの協働:人間と機械の共同制作が常態化。
批評の再定義:理論と文脈が、NOT ART成立の最後の鍵となる。
さいごに ― 「キュレーションの時代」を生きる
NOTART 1.0〜4.0を振り返ると、アートの核心は常に「NOT ART」をどう扱うかにありました。
1.0:モノや日常を置くことでアートに。
2.0:概念や社会を作品そのものに。
3.0:消費・拡散・体験を通じてアート化。
4.0:AIと人間の協働による新しいキュレーション。
現代アートは「わからない」と批判されがちですが、それは「NON ARTをどうNOT ARTに変えるか」という問いを突きつけているからです。
そしてその問いに答える力こそ、キュレーションです。
SNSを使い、AIを触り、街を歩き、音楽を聴く。
私たち一人ひとりがすでに「NOTART 4.0」のキュレーターにも成り得る時代なのです。
最後になりますが、下記のサイトから引用します。
2021年のインタビューで、アイ・ウェイウェイは芸術の力と限界について次のように語っています。
「芸術家は戦争を止めることはできません。過去を振り返ってもそうですし、現在も未来も同じでしょう。その意味において、芸術は無力と言えるかもしれません。しかし、自分たちの感情を獲得し、我々が何者であるかを権力に示すという点で芸術は力をもっています。それがもっとも重要なことです。政治家の個人的な野望や政府がもつ国家に対する間違った考えに異を唱え、我々の人生はすべからく有意義で美しいものだとメッセージを発していくことができる。そういう意味では、芸術家は強力な存在なのです。」
― The Fashion Post 「アイ・ウェイウェイが語る“危機の時代における芸術家の役割”」(2021年インタビューより)
https://fashionpost.jp/portraits/228842
芸術家の一人一人は、戦争を止められない、地球温暖化も止められない、かもしれませんが、その生き方、思想の表出としての作品が、社会の良識ある人々の大きな共感と行動への覚悟を導いた時、それは、決して無力ではないと思います。
「NOT ART3.0」の時代でみたように、「現代アート」というラベルをつけた「NOT ART」作品のいくつかが、静かに「NON ART」の世界にも影響を及ぼし「現代アートのラベルのないNOT ART」となって大衆の生活の中に息づいています。
作品の表現方法によっては、「訳が分からない、意味がない、無駄だ、嫌いだ」という批判はこれからも消えることは無いかもしれませんが、キュレーションのあり方次第で、そういう声も逆転する可能性があります。
誰に向けて何を伝えていくのか、NOT ART4.0の時代のキュレーションが目指すべき道しるべです。