『レイチェルの記憶』は、映画『ブレードランナー』とフィリップ・K・ディックの原作に影響を受けて制作したオマージュ作品です。
原作や映画が問いかけてきた「記憶」「アイデンティティ」「人間と機械の境界」は、私自身にも強く響きました。
よく知られた題材を入り口にすれば、現代アートに馴染みのない人にも、理解や共感のきっかけをつくれるのではないかと考えました。
オマージュは単なる引用ではなく、エンタメと現代アートの境界を浮かび上がらせる手段になり得ます。
その意図を込めて、この形式を選びました。
オマージュは単なる引用か?
オマージュは単なる引用の繰り返しに見えるかもしれません。「ファンアートでは?」と言われても仕方ありません。
アートと主張すれば、二次創作的であり、オリジナリティに乏しいという批判を受けがちです。
しかし、ここでのオマージュは“境界を浮かび上がらせる手段”として機能します。
つまり「借りている」こと自体を意識化し、現代アートとエンタメの間にある境界線を「NOT ART」としてあえて見せる試みです。
しかも、題材とした作品は「アート」というラベルの付いていない「NOT ART」であり(一部のファンには、もはや「アート」的に扱われていますが。)、二重の意味で「NOT ART」な作品です。
批判や嫌悪にどう向き合うか
現代アートは「わからない」「嫌い」といった批判や嫌悪を受けがちです。
それを無視して進んでしまうと、アートが持つ「多様な価値観を認め合い、分断を埋める力」を手放してしまうのではないか、と感じます。
この作品には、批判や嫌悪を示す人にこそ「なるほど」と思ってもらえる余地を残したい、という思いを込めました。
これはArtstylicが提案する「NOT ART」という視点──光と影を同時に見せ、境界を翻訳する試み──ともつながっています。
タイトルも、捻ることなく、敢えてストレートでわかりやすいものにしました。
(画像も含めて、著作権などの問題にも十分に配慮しています。)
素人としての立場とプロからの触発
私は職業作家ではなく、素人として作品をつくっています。
ただ、この作品を形にするにあたっては、プロの先生からの助言や刺激にとても助けられました。
その意味で、『レイチェルの記憶』は素人の自由な試みと専門的な知見のあいだに位置する作品だと思っています。
限界と今後の課題
この作品には限界もあります。
もとになった『ブレードランナー』という映画は、公開当初から「難解」「退屈」「つまらない」と批判され、今でもそう感じる人が少なくありません。
さらに、今の世代には映画そのものを観たことがない人も多く、かつて革新的だった映像表現も現在では珍しくなくなっています。
そのため、本来もっとも伝えたい人にほど、このオマージュの意図が届きにくいという矛盾を抱えています。
これは従来の現代アート作品と同じく、「伝わるべき人に伝わらない」という構造的な限界に通じています。
それでも、「AIとアート」「人間とAI」という今日的なテーマは今も切実さを増しています。
だからこそ、この題材に取り組む価値があったのではないかと思っています。
おわりに
『レイチェルの記憶』は、完成された答えというより、一つの通過点のような作品です。
現代アートと境界をどうキュレーションすべきかという課題には、もっと別の表現も必要かもしれません。
独自性が弱い、安直だ、説明が長い──そうした批判はすべて妥当な批判でしょう。
けれど、説明過剰であることは「批判や嫌悪」を予め想定したキュレーションには必要ですし、職業作家のように評価を気にせず、過剰な説明や分かりやすい安直なタイトル、といった試みを形にできるのは素人の強みでもあります。
その自由さを活かして、この作品を「NOT ART4.0」の時代に向けた入口として置いてみました。
出典について
本作は、映画『ブレードランナー』(リドリー・スコット監督、1982年公開)およびフィリップ・K・ディック原作『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』に着想を得たオマージュ作品です。
作中に触れる物語の内容やイメージの権利は、すべて各著作権者に帰属します。