はじめに
クリント・イーストウッド監督の『許されざる者』(1992年)は、西部劇の終焉を告げる映画としてしばしば語られます。
しかしこの作品を当サイトで「別格」として取り上げる理由は、それだけではありません。
暴力の連鎖や正義の相対化を描き出すだけでなく、銃社会の矛盾とアメリカの分断構造を寓話的に浮かび上がらせているからです。そしてその構造は、私のサイトが出発点とした「アートの評価をめぐる分断」と驚くほど響き合っているからです。
そこで、インテリアや暮らしの中のアートをテーマにしているサイトでが、今日はちょっと特別に、映画『許されざる者』をアート、いや「NOT ART」として取り上げてみました。
この投稿は、三部作シリーズの第二部です。
- 第一部「現代アートへの批判と課題」では、現代アートが抱える「価値観の分断」を大枠として整理しました。
- 第二部「米国の分断から見えてくる現代アートの課題」では、アメリカ社会におけるアートの位置づけと政治的偏りを検討しました。
- 第三部である本記事では、クリント・イーストウッド監督『許されざる者』を題材に、銃社会とアート評価の矛盾を重ね合わせて論じます。
『許されざる者』の物語と暴力の構造
この映画は、一見すれば古典的な西部劇映画ですが、そこには「暴力の連鎖」や「正義の相対化」、そして「誰もが抱える許されざる過去」といった普遍的なテーマが込められています。
ストーリーは、イーストウッドが過去に演じてきた荒野の正義の味方を描く西部劇の定番、「悪を裁く正義の銃撃戦」とは異なる構図が繰り返し現れます。
そこでは、弱い立場の人間が理不尽に犠牲になります。しかも、それは、従来の西部劇ではあり得ない、主人公の怒り、恨みの延長で起きるのです。
誰が正義を語り、誰が代償を負わされるのか―その逆転の構図こそ、米国の銃社会の縮図を象徴的に映し出しているように見えます。
公開時よりもさらに深い衝撃~逆説のホラー映画
『許されざる者』が公開された1992年、アメリカ映画界はすでに古典的な西部劇の時代を終えていました。
その中でクリント・イーストウッドが監督・主演したこの作品は、単なるジャンルの復活ではなく、西部劇そのものの神話を解体する試みとして受け止められました。
批評家からは「西部劇の終焉を告げる映画」と評され、アカデミー賞作品賞を含む主要部門を受賞。観客にとっても、ヒーロー神話を剥ぎ取り、暴力と正義の裏側を描いた重厚な物語は強い衝撃となりました。
しかし、残念かつ不幸なことに、時を経て、この映画のテーマは、公開時よりもさらに深刻な現代社会の課題を炙り出しているように感じます。
そして、主人公を、極悪非道な殺人鬼のような悪人に描いていないところ、そして何となくハッピーエンドのようなほんわかとしたエンディング(最後の主人公の妻の母親の語った言葉のナレーションも秀逸)で描き切ったところ、実は、そこがこの映画の真に恐ろしいところであり、改めて衝撃を感じざるを得ないのです。
(私は、このエンディングをもって、「逆説のホラー映画」と呼んでみました。)
現代社会の不条理の鏡
『許されざる者』を「反戦」や「政治的イデオロギーの分断」の象徴として見る視点は、これまであまり指摘されてこなかったかもしれません。
しかし、その構造は戦争や銃社会の問題そのものと重なります。
- 怨嗟による暴力の連鎖が止まらないこと
- 正義の名の下に繰り返される破壊
- 不条理な、無関係な人々の犠牲
これらは、まさに戦争や銃社会がもたらす不条理そのものです。
スタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情』(1964)が冷戦下の核戦争を風刺したように、イーストウッドの『許されざる者』もまた、価値観の分断や戦争を止められない時代に対する批評として読むことができます。
西部劇の皮をまとった静かな反戦映画、そして非暴力の映画―そのように位置づけることで、作品の新しい側面が浮かび上がります。
銃社会の矛盾と政治的対立の構図
銃社会の根底には「自由を取るのか」「理不尽な死を少なくする社会を取るのか」という問いがあります。
本来これは、社会、そして個々人の幸福をどう守るかという実務的な課題にすぎません。
しかしアメリカでは、永年この問いが「リベラル vs 保守」の政治的対立軸へと変換されて両派の分断の最も大きなテーマとして横たわっています。
自由を重んじる側は規制を「権利の侵害」とみなし、安全を重んじる側は「生命の尊厳」を優先する。
本来は対立しなくてもよい二つの価値が、政治的レトリックの中で分断を深める象徴となっているのです。
この矛盾した政治構造を、リベラル派と保守派、両陣営の大衆が等しく理解することこそが、分断を乗り越える第一歩となるはずです。
現代アートとの相似
現代アートもまた、似たような構造を抱えています。
「現代アート=コンセプチュアルアート」というイメージが広がり、リベラル的価値観を象徴するラベルとなってしまったのです。
一見すると現代アートは自由に開かれ、多様な表現を受け入れているかのように見えます。
しかし実際には、リベラル派寄りのテーマの作品を中心に、同じくリベラル派が多いエリート層の承認によって評価が決定づけられ、政治的イデオロギーの分断の要因となってしまっているのでは、と言われている米国アート業界。
拡張されたはずの自由が、むしろ不平等や疎外感を生み出している点で、銃社会の構造と驚くほど相似しています。
銃を巡る価値観の分断と、現代アートの枠組みの分断が、相似形のようにリベラル派と保守派に分かれているように見える(多分外れてはいないと思いますが)、という構図は、多くの日本人には、見えていないのではないでしょうか。
NOT ARTの求めるもの
このことに気づいた私は、このサイトで、NOTART という逆説的ラベルを導入してみました。
アートか否かの境界を問うのではなく、「これはアートではない」と切り捨てられた表現をあえて拾い上げることで、エリート評価に依存しない対話の場を作り出せないか、という実験です。
『許されざる者』の描く「弱者が犠牲になる構図」もまた、アート的に言えば「NOTART」です。
物語の中心ではなく、むしろ正義や美学の物語から排除される出来事。
しかしその「外側」に置かれた犠牲こそが、アメリカ社会の銃の問題の矛盾をもっとも鮮烈に突きつけています。
この矛盾した政治構造をリベラル派と保守派の双方が理解できるように翻訳すること―その役割を担えるのが、今のリベラル派寄りの「現代アート」というラベルで評価する枠組みではなく、双方に共感を呼べるようなクリエイションを通じて試みる新たな枠組み、それが「NOTART」にならないだろうか、という試みです。
私のサイトとの接点
私のサイト自体が、アートの評価をめぐる分断からスタートしています。
「これはアートか?」「ただのポップカルチャーか?」という議論に潜む乖離、そしてエリートと大衆の認識の断絶を出発点としました。
『許されざる者』を「別格」として取り上げたのは、この映画の中に、現代アートの本場である米国の政治的分断の象徴としての構図を見い出したからです。
アートにおける評価の分断と、銃社会をめぐる価値観の分断。
どちらも「何が本当に社会を幸せに導ける正義なのか」という問いに直結しています。
イーストウッドというアーティスト
こうした視点から、私は『許されざる者』によって、クリント・イーストウッドは映画監督でありながら「NOT ART」の作家となったと位置づけました。
西部劇を終わらせると同時に、そのジャンルを社会批評として蘇らせたことで、彼は映画作家であると同時に、キューブリックや黒澤明と並ぶ稀代の「NOT ART」のアーティストとなったのです。
イーストウッドは、この映画で「娯楽映画」と「芸術」の境界を揺さぶり、人間存在の根源を問う作品を生み出しました。
その問いは30年を経た今もなお、いや、混迷を深める今の時代になってこそ、余計に重い命題を私たちに突きつけています。
(ああ、なんてこった!!)
NOT ARTとしての試み
『ブレードランナー』も『許されざる者』も、それぞれ公開時に深い衝撃を与え、観る人に強い思考を呼び起こしてきました。だからこそ、いま改めてこれらを「NOT ART」として読み替えることで、時代への新たな批評を引き出すことができます。
言葉で伝えれば早いようなことを、詩にしたり、「現代アート」というラベル付きの作品にして展示したり。
そういうアートごっこに見える営みも、見方を変えれば社会への「深くて長い問いかけ」に変わります。
アートは戦争を止められない、無力だ、という指摘もあります。
確かに直接的にはそうかもしれません。
しかし、暴力はもっと無力で、憎しみを増幅する装置でしかないことを、この映画は、言葉で伝えるよりもはるかに、心をえぐるように、しかも30年の時を経た今も、深いメッセージとして伝えてくれています。
このような作品が、銃を巡る米国社会でもう一度見直されて、保守派とかリベラル派といった政治的イデオロギーを超えて、暴力のむなしさを共感しあい、第三の道を探す方向で分断を埋めることはできないのか?
こうした問いかけを、多様な考えの人にも何とか共感してもらうこと、それが本来の「アート」の意義ではないでしょうか。
最後に
『許されざる者』が映す分断の寓話
『許されざる者』は、イーストウッドが意図したかどうかにかかわらず、銃社会の矛盾を寓話的に描き出した作品とも言えます。そしてその矛盾こそが、アメリカのリベラルと保守の分断の根底にある象徴的テーマであり、また、いま世界各地で起きている戦争の原因となっている価値観の分断の構図をも示している気がします。
イーストウッドの立場と映画の二重性
さらに注目すべきは、監督自身の立場です。長年保守派として知られてきたイーストウッドですが、近年は同性婚や環境問題といったリベラル的価値観にも理解を示し、2020年には民主党候補を支持するなど、より柔軟な姿勢を見せています。
公開当時のイーストウッドが意図していたかどうかはわかりませんが、『許されざる者』もまた、彼の今の姿勢と重なるように、保守的な「秩序」や「力」の虚しさと、リベラル的な「非暴力」や「平等」の限界を同時に描き出し、米国社会の大きな課題も象徴しています。
母親のナレーションの逆説
映画の最後のマニーの妻の母親の言葉のナレーションは、こう読み替えてみることもできます。
「銃を嫌っていたはずの娘が、なぜ銃で人を殺すような男を選んだのかを最後まで理解できない」と言っていた、と。
この最後の問いは、銃を憎みながらも銃を持つ者に依存せざるを得ない社会の逆説を突きつけています。
二項対立が解決を生まない現実
ここから見えてくるのは、単純な二項対立の構図では何も解決できないという厳しい現実です。長年、日本でも「二大政党制こそ成熟した民主主義の姿だ」とされ、アメリカを手本とすべきだという議論がありました。しかし本当にそうなのか、いま改めて問い直す必要があるでしょう。
『許されざる者』は、二項対立の枠組みが解決ではなく分断を固定化してしまう現実を寓話的に描き出しているともみることができるのです。
現代アートと“影”の構造
このように、社会批判等のメッセージをテーマとする現代アートを深く論じると、必ずイデオロギーの対立というアートの持つ“影”の部分に行き着くのであり、それは避けられない構造です。
しかし重要なのは、その影を放置することではなく、どうすれば光を増幅できるかを考えることです。
NOTARTが示す第三の道
現代アートのラベルが孕む矛盾と銃社会=米国の矛盾は、相似的な構造を持っています。だからこそ本作は、西部劇の更新にとどまらず、アートと社会の関係そのものを問う批評的作品として、私は「別格の位置にある」として取り上げました。
そしてさらに言えば、二項対立ではない、双方が理解できるような橋渡しをして、第三の道を探すきっかけを促すこと―その役割こそ、「現代アート」というラベルにこだわらない「NOTART」にできることなのかもしれません。
補記:銃規制を超えた「第三の道」の可能性
『許されざる者』が示した寓話的構図は、「力による秩序」も「非暴力の理想」も同じように虚しさを露呈するものでした。これは現代社会における銃問題にもそのまま当てはまります。規制か自由か―その二項対立からは解決は生まれず、むしろ分断を固定化してしまう。では、その間にある「第三の道」は存在しないのでしょうか。
文化的アプローチ:銃の意味を書き換える
銃を「自由の象徴」としてきた歴史そのものを問い直し、殺傷能力の高い銃器の利用を限定しながらも、スポーツ射撃や狩猟文化といった生活文化を維持する。
銃を「戦闘の道具」ではなく「文化の一部」として再定義し、社会に根付く新しい物語を紡ぐことができます。
社会的アプローチ:弱者保護を中心に据える
銃犯罪の多くは、貧困・差別・孤立と結びついています。教育・医療・地域福祉への投資を強化することで、「銃を持たざるを得ない状況」そのものを減らす。これはリベラルの「規制」でも保守の「自由」でもなく、生活基盤を整える実務的な解決策です。
技術的アプローチ:スマートガンと管理システム
技術によってリスクを減らす道もあります。
- 指紋認証:持ち主の指紋でのみ発射可能
- RFIDチップ:腕時計やリングを装着した本人だけが撃てる
- データベース管理:不法流通を追跡・制限
こうした「スマートガン」は米国・欧州で開発が進められ、ドイツのArmatix社や米国のLodeStar Works社が試作や市販化に挑戦してきました。まだ信頼性やコストの課題がありますが、銃を完全に禁止するのではなく「事故や盗難による誤射・乱射を防ぐ」という中間的な解決策として注目されています。
NOTARTとの接点
『許されざる者』を読み替えると、「規制か自由か」という二項対立の虚しさが浮かび上がります。必要なのは、その狭間にある第三の物語をどう紡ぐか。現代アート―あるいはNOTART―が果たせる役割もまた、対立を超えて新しい視点を与える「橋渡し」にあるのではないでしょうか。