アートとは何でしょうか。
「アートごっこではないか」という批判を耳にすることがあります。たしかに、そう見える側面もあるかもしれません。
言いたいことがあれば、誰にもわかる平易な言葉で言えばいいじゃないか?と。
ですが、あえてその「ごっこ」と呼ばれる余白の中に、社会に問いを投げかける力が潜んでいるのではないかと、私たちは考えています。
Artstylicではこれまで、「NOT ART」というキュレーションの題材として、映画や音楽なども紹介してきました。
その一例が『ブレードランナー』です。AIが人間の記憶や創造性を模倣しはじめた今の時代に、この映画を「NOT ART」として取り上げ、人間とは何かという問いをもう一度見つめ直しました。
「現代アート」というラベルがついた展示作品だけではなく、娯楽として知られている作品が、時代を映す鏡のように立ち上がる―その読み替えの試みこそが、Artstylicにとっての「NOT ART」です。
なぜ、今、『許されざる者』なのか
そして今、私が注目したいのが『許されざる者(Unforgiven, 1992)』です。
一見すれば古典的な西部劇映画ですが、そこには「暴力の連鎖」や「正義の相対化」、そして「誰もが抱える許されざる過去」といった普遍的なテーマが込められています。
小さな出来事が報復を呼び、やがて誰も正義を名乗れなくなっていく。
秩序や権威を守るはずの存在が、逆に恐怖を広めてしまう。
そして、そこには「無関係な人々が犠牲になる」という不条理が描かれています。
こうした構造は、決して遠い過去の物語ではありません。現代の戦争や分断と重ねて読むことができるのではないでしょうか。
公開時の衝撃と時代背景
『許されざる者』が公開された1992年、アメリカ映画界はすでに古典的な西部劇の時代を終えていました。
その中でクリント・イーストウッドが監督・主演したこの作品は、単なるジャンルの復活ではなく、西部劇そのものの神話を解体する試みとして受け止められました。
批評家からは「西部劇の終焉を告げる映画」と評され、アカデミー賞作品賞を含む主要部門を受賞。観客にとっても、ヒーロー神話を剥ぎ取り、暴力と正義の裏側を描いた重厚な物語は強い衝撃となりました。
この映画は、娯楽を超えて思考を呼び起こす作品として刻まれたのです。
反戦映画としての位置づけ
『許されざる者』を「反戦映画」として見る視点は、これまであまり強調されてこなかったかもしれません。
しかし、その構造は戦争そのものと重なります。
- 暴力の連鎖が止まらないこと。
- 正義の名の下に繰り返される破壊。
- 無関係な人々の犠牲。
これらは、まさに戦争がもたらす不条理そのものです。
スタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情』(1964)が冷戦下の核戦争を風刺したように、イーストウッドの『許されざる者』もまた、暴力の時代に対する批評として読むことができるのではないでしょうか。
西部劇の皮をまとった静かな反戦映画――そのように位置づけることで、作品の新しい側面が浮かび上がります。
二つの作品を並べて考える
- 『ブレードランナー』は、AI時代の人間を問い直す作品。
- 『許されざる者』は、暴力と分断の時代の人間を問い直す作品。
ジャンルも時代も異なる二つの映画ですが、並べて考えてみると共通の問いが浮かびます。
「人間とは何か」
「私たちは許される存在なのか」
この二つの問いを、Artstylicは「NOT ART」として重ねて提示してみたいと思います。
イーストウッドというアーティスト
『許されざる者』によって、クリント・イーストウッドは映画監督でありながら「NOT ART」の作家となったのです。
西部劇を終わらせると同時に、そのジャンルを社会批評として蘇らせたことで、彼は映画作家であると同時に、キューブリックや黒澤明と並ぶ稀代のアーティストとなったのではないでしょうか。
イーストウッドは、この映画で「娯楽映画」と「芸術」の境界を揺さぶり、人間存在の根源を問う作品を生み出しました。
その問いは30年を経た今もなお、私たちに響き続けています。
NOT ARTとしての試み
『ブレードランナー』も『許されざる者』も、それぞれ公開時に深い衝撃を与え、観る人に強い思考を呼び起こしてきました。
だからこそ、いま改めてこれらを「NOT ART」として読み替えることで、時代への新たな批評を引き出すことができるのではないでしょうか。
言葉で伝えれば早いようなことを、詩にしたり、「現代アート」というラベル付きの作品にして展示したり。
そういうアートごっこに見える営みも、見方を変えれば社会への問いかけに変わります。
アートは戦争を止められない、無力だ、という指摘もあります。確かに、直接的にはそうかもしれません。
しかし、暴力はもっと無力で、憎しみを増幅する装置でしかないことを、この映画は、言葉で伝えるよりもはるかに、心をえぐるように教えてくれるはずです。
これこそが、「アート」の価値ではないでしょうか。
そして、その問いこそが未来に残っていくのかもしれません。
アートとは、人間が人間であることをやめないための営みなのではないでしょうか。