自律型AIが変えるアートとデザインの境界

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アートかデザインかという古くて新しい問いの課題

「アートはアイデアである」― ソル・ルウィット(1967)、この言葉が揺らぐ時代のアートの意義とは

自律型AIの衝撃と新しい問い

2022年、Stable Diffusion や Midjourney が一般公開されました。
それまで専門家しか扱えなかったAI画像生成が、誰でも数秒で作品を生み出せる時代に突入したのです。

「sunset over futuristic Tokyo, cyberpunk style」と入力すれば、まるでプロのイラストレーターが描いたかのような画像が生成される。
重要なのは、プロンプトを書く行為そのものがキュレーションになり得るという点です。

さらに進化した自律型AIは、プロンプトすら不要でアウトプットを生み出します。
ここで問われるのは、「作者は誰なのか?」という古くて新しい問い。
ソル・ルウィットが「アートはアイデアだ」と言った時代が、AIによって転換点を迎えているように思えます。

アイデアの終焉?

AIは膨大なデータを参照し、無限のスピードで新しい組み合わせを吐き出します。
「意外な発想」や「誰も考えなかった組み合わせ」は、すでにAIの領域に入りつつあります。

そうなると、人間が「ゼロからのアイデア」を生み出す余地はどこまで残されるのか。
人間はAIに思いつかない新たなアート表現を、まだ見つけ出せるのか?
あるいは「組み合わせの発想」に関しては、もはやAIに勝てない時代に突入してしまったのかもしれません。
AIがアイデアを無限に生み出す時代に、人間の表現はどこへ向かうのか。
この問いに答えるためには、100年以上にわたる「既製品とアートの関係史」を振り返る必要があります。

デュシャンの便器から始まった百年の問い

1917年、デュシャンは便器を《泉》と名付け展示しました。
それは「便器そのもの」がアートになったのではなく、便器を選び、美術館に提示する行為こそがアートであるという挑発でした。
この瞬間から、アートは「ゼロから創造する」営みから、「何を選び、どう見せるか」という問いへと拡張されたのです。

その後、ウォーホルは《キャンベルスープ缶》を並べ、消費社会そのものを作品化しました。
草間彌生や村上隆は、大衆文化やサブカルを積極的に取り込み、「軽い」と批判されながらも、やがて現代アートの正史に組み込まれていきます。
さらにデジタル時代には、コピーやリミックス、ネットミームが文化を覆い尽くし、「唯一無二のオリジナル」という概念さえ揺らぎました。


レディメイド5.0 ― AI生成物という便器の洪水

Stable Diffusion や Midjourney のような生成AIは、誰でも短いテキストを入力するだけで、プロ顔負けの画像を作り出します。
このとき生み出されるアウトプットは、一つひとつが「既製品=便器」と同じ立場にあります。
つまり、作品の核心は「生成そのもの」ではなく、数えきれない便器の中から何を選び、どう提示するのかに移るのではないでしょうか?
ここでのアーティストは「ゼロから作る人」ではなく、「選び直す人」であり、同時に「共感を設計する人」へと変わることになります。
つまり、セレクトした作品の文脈と社会を繋ぐ「キュレーショナル・アート」がメインとなる可能性です。

アートかデザインかという境界

では、AIの造形はアートなのか、それともデザインなのか。
伝統的に両者はこう分けられてきました。

  • デザイン=機能や目的を果たすための造形
  • アート=目的から自由で、問いや感情を喚起する造形

ところが自律型AIは、目的に応じて造形を生み出します。
美しい椅子も、切ない風景も、同じように吐き出される。
その外見だけではアートかデザインかの区別はつきません。

このため「AIの造形はすべてデザインでしかない」という見方すら可能です。
機能の有無で区別できなくなれば、アートはデザインに吸収されてしまう危険があるからです。

外見では判断できない危機

実際に2023年、ドイツの写真コンテストでAI生成の画像が最優秀賞を受賞しました。
審査員ですら気づけず、作者が「AIで作った」と自ら明かして辞退するまで真実は隠されていた。

この事件は二つの現実を突きつけました。

  • 外見だけではAIか人間か区別できない
  • 隠蔽されれば共感は欺瞞に変わる

アートとデザインの境界が外見に頼れなくなったことは、アートのラベルそのものを揺るがします。

共感は十分条件にならない

これまで現代アートの歴史では、「社会が共感し、問いを感じ取ればアートと呼ばれる」という常識が通用してきました。
しかしAI生成物にそのラベルを適用することには、多くの人が抵抗を覚えるでしょう。

  • 「AIが作ったものをアートと呼ぶのは不正直だ」
  • 「感動しても、それは演出された幻ではないのか」
  • 「人間的経験を欠いたものに心を動かされるのか」

単に「共感があればアート」というラベルは、AI時代にはもはや十分条件ではなくなっています。

新しい条件 ― 共感+透明性

では何が必要なのか。
おそらくこれからのアートには、共感に加えて「透明性という制作プロセスへの信頼」が不可欠になるかもしれません。

  • どの段階でAIを使ったのか
  • どこから人間の選択が介在しているのか
  • どのような意図で社会に提示しているのか

そのプロセスを誠実に明示できるかどうかが、信頼と共感を両立させる鍵になるのではないでしょうか?

まだ答えは出ていない

アートの価値は、これから「造形の新しさ」ではなく、どのように社会に共感を生み出し、信頼を築くかに移行しつつあります。しかし、AIが生み出す造形をアートと呼ぶべきか、デザインと呼ぶべきか――その答えはまだ誰にも出せていません。

私たちは、自律型AIの出現によって、アートかデザインかという古くて新しい問いを、再び根本から考え直す時代に立っているのです。

実験的作品

実際に「詩」という最も人間的なクリエイションをAIと協働で作った実験的な作品があります。ここには、そのことを明示して展示しました。

「The First Drop -境界-」のもう一つの作品解説
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