アート評価と偏差値の矛盾:感性と専門家による価値決定の再考
アートの評価軸として、しばしば「知的深度」や「高尚性」といった要素が重視され、これが「偏差値の高い層」にしか理解されないものとされることがあります。
しかし、「偏差値の高さ」と「感性や美的センスの高さ」は必ずしも一致しません。
この矛盾は、特に現代アートや高尚なアートの評価が、美術専門家による価値決定に依存していることから生じています。
アーサーダントーの言葉にこういう一節があります。
芸術は、その存在が理論に依存する種類のものである。
芸術理論なしでは、黒の絵の具は単に黒の絵の具であり、それ以上ではない
つまり、アートの知見のない「大衆」に芸術の評価はできないと言い切っているのです。
まあ、たしかに、あのダントーが言ってるのですから。しかし、時代はさらに、混迷を深めており、この理論だけを貫いて専門家の評価だけが尊重される状態で、果たして「今の現代アート」に未来はあるのでしょうか。
この記事では、偏差値、美的センス、高尚性、そしてアート評価の仕組みの矛盾と「現代アートの未来」について掘り下げます。
1. 偏差値の高さと美的センスのズレ
偏差値の高さは「知的処理力」の指標に過ぎない
偏差値は、主に学力や知的処理能力を測る指標です。これには数学や語学、論理的思考力が含まれますが、「感性」や「美的センス」は評価対象に含まれていません。
- 感性の独立性
美的センスや感性は、個々人の経験、文化的背景、あるいは直感的な反応によるものであり、知能指数や偏差値とは無関係です。
たとえば、偏差値の低い層でも、優れたデザインや自然の美しさに深く感動することができます。 - 専門知識が感性を奪う可能性
一部の美術専門家が、複雑な理論や歴史的背景に依存してアートを評価する一方で、一般の大衆の直感的な感動を軽視する傾向があります。
このため、感性そのものの価値が見過ごされる場合があります。
偏差値では測れないアートの影響力
- ポップアートの例
アンディ・ウォーホルの作品は、専門知識がなくても多くの人々に直感的な共感を与えます。
ポップアートは、偏差値の高低にかかわらず広く愛されるアートの代表例と言えます。 - アートの普遍的な力
葛飾北斎の《富嶽三十六景》のように、専門家による深い解釈がなくとも多くの人がその美しさを感じられる作品は、偏差値や知識を超えた普遍性を持っています。
2. 高尚なアートの評価と専門家による価値決定の矛盾
専門家だけによる価値決定の問題
現代アートや高尚なアートは、一部の美術専門家や批評家によってその価値が決定される傾向があります。
しかし、この評価基準には以下の矛盾が含まれています。
- 閉鎖的な評価プロセス
美術評論家や専門家が「良いアート」を定義する際、その判断基準が一般大衆に共有されることは少なく、多くの場合、難解な理論や歴史的背景に依存します。
これにより、アートの評価が狭いコミュニティ内で完結してしまいます。 - 市場価値との乖離
高尚なアートは、専門家の評価によって価格が決まる場合が多いですが、その価値が必ずしも大衆に理解されるとは限りません。
たとえば、バンクシーの作品がオークションで高値を付ける一方で、その意図や背景が一般人には不明確なことがあります。
評価基準の曖昧さ
高尚なアートが「知的」または「革新的」とされる理由には、しばしば主観的な要素が含まれています。
これにより、アートの価値が客観的に評価されることは困難です。
- 例:ジャクソン・ポロックのドリッピング技法
ポロックの絵画は「革新的」と評価される一方で、「ただの絵具の飛び散り」として理解されない場合もあります。
専門家はその技法の背景やアート史における意義を強調しますが、大衆にはその説明が難解であることが多いです。
3. アートの評価における「感性」の役割
感性と美的センスの普遍性
「現代アート」以前の「アート」には、知識や学力ではなく、感性を通じて鑑賞者に直接的な影響を与える力も評価軸にありました。
- 大衆に支持されるアートの価値
ラッセンの海洋アートは、専門家には「低俗」と批判されることが多いですが、そのビジュアルの美しさや直感的な魅力により、日本の昭和の時代に幅広い層から愛されました。
これは、感性が偏差値とは無関係に機能する例の一つですが、エリート主義的評論家からは、それこそが「大衆のセンス」を否定する事例ともなっています。
つまり、「ラッセンのような絵が大好きなヤンキー的好み」こそがポピュリズムのセンスであり「知的で高尚なアート」を評価できるわけがない、という文脈につながっていると思われます。 - ラッセンのスーパーリアリズムの手法が生成AIで容易に模倣できる時代となった今では、余計にアートとして高く評価しがたいという側面もあります。
しかし、ラッセンの作品が、今の時代を先取りしていたこと、大衆性、商業主義の三つを備えていたことは否定できません。これらはアート専門家等からの評価を下げる原因となる一方で、「歴史的な大衆アート」という文脈において再評価の可能性を秘めています。
現代における大衆文化とアートの関係性の見直し、そして商業とアートの融合という新しい評価基準が進む中で、ラッセンの作品がその時代の大衆の好みを映したものとして、新たな意味を持つ日が来るかもしれません。
彼の海洋アートは、単なる「美しい絵」ではなく、20世紀後半から21世紀初頭にかけてのポピュリズムの文化の記録として「エリート主義的な現代アートとしての良い悪い」という評価軸以外で再評価される可能性を秘めています。 - 専門家と大衆の評価のズレ
たとえば、19世紀の印象派画家(モネ、ルノワールなど)は当時の美術アカデミーから酷評されましたが、大衆の支持を得て最終的には美術史における重要な位置を確立しました。
感性を重視した評価の必要性
- バランスの取れた評価軸
アートの評価は、専門家の知識や理論だけでなく、大衆の感性や美的反応を取り入れるバランス感覚が求められるのではないでしょうか。
多くの大衆の共通の感性に訴える力こそが、作品が広く愛される理由の一つだからです。
社会へのメッセージがテーマのアートが評価される時代なのであれば、大衆に共感を与えなければ、エリート層だけの閉鎖的なアートになり影響力は限定的です。 - 感性と知識の融合
専門家が提供する背景知識は、感性による直感的な理解を補完するものであり、どちらか一方に偏るなら、「アート」という同じワードがついていながら、交わることのない異質なものとなります。
4. 良いアートの本質と評価の再考
良いアートの条件
「良いアート」とは、専門家の知見や理論的な評価だけでなく、以下の要素を満たすものだと定義したら、これからの「現代アート」の方向性と矛盾するでしょうか?
- 感性に訴える力
知識がなくても大衆とされる普通の人々にも直感的に美しさやメッセージを感じられる。
例:葛飾北斎やゴッホの作品。 - 知識で深まる鑑賞体験
背景やテーマを知ることで、さらに深い理解が得られる。
例:デュシャンの《泉》、バンクシーのストリートアート。 - 普遍的な価値
時代や文化を超えて、多くの人々に影響を与える。
例:ミケランジェロの《最後の審判》。
評価の再考
アートの評価は、「偏差値の高さ」や「専門家の権威」だけではなく「感性の普遍性」と「知識で深まる価値」の両方をバランスよく考慮されてはじめて、社会へのメッセージも広まるはずです。
まとめ:知性と感性による評価軸~現代アートの未来はポップアートが示している
アート、特に現代アートの評価において、「偏差値が高い=良い現代アートが理解できる」というダントーが示した図式は確かにある時代の現代アートの本質だったかもしれません。
しかし、SNSと生成AIが生れた今となっては、「現代アート」と呼ばれた「現代」のアートは、その未来を閉ざしてしまうリスクを孕んでいます。
感性や美的センスは、偏差値や知識の多寡に依存しない普遍的なものであり、大衆が愛するアートの中にも重要な価値が含まれています。
「専門家だけが評価し得る知的なコンテンポラリー・アート」と「大衆向けの(エセアートとされているような)ポピュリズム・アート(敢えて「ポップアート」とは言いません)」に分化した現状がさらに乖離していくのか?
「ポップアート」が切り開いた本質は、感性と知性(単に知識というべきか)を融合させた新しい評価軸による「第三のアートの道」であるとすれば、「アートの未来」をさらに切り開くのは「ポップアート」であるはずです。
そういう意味で、狭義の「ポップアートの時代」は終わったのかもしれませんが「大衆の感性で評価するアート」としての「ポップアート」は終わらないのです。
最後に
ポップアート、現代アートの未来を予言する「SFアート小説」はこちら
「現代アートの課題をテーマにSFアート小説をAIに書いてもらう」(Dr.Rina Dalton & ARTSTYLIC 共著 2025.1.7)