「アートとは何か」ということを論じる際によく見かけるもので有名なもののひとつが、マルセルデュシャンのトイレの便器の作品「泉」でしょう。
もう一つ、日本の固有の問題として、よく見るのが「ラッセン」や「ヒロヤマガタ」で起きた過去の「絵画商法」にまつわる現象です。
後者は「ヒロヤマガタ問題」のように「問題」というワードがくっついて、もはやひとつの単語のように多くの論評があります。
ラッセンについては、話題になった書籍「ラッセンとは何だったのか?(原田裕規:編著 2013年)」もあり、これ以降の10年で、もはや語りつくされた感もありますが、これから「アートとは何か?」ということが気になる人にとっては、ネットやAIの時代になって、こうしたラッセンにまつわる過去の現象や論評を容易に俯瞰的に見れる時代となりました。
「現代アートとは何か」というように「現代」というワードがついた場合に必ず取り上げられるのがデュシャンの「泉」であり、こちらはもはや「あんなものはアートではない」等という主張を探すのは難しいほど、既に歴史上の「アート」の一つとして確立された作品ですが、一方の「ラッセン」については、「絵画商法」という売り方の問題と絡まって、「あれも一つのアートだ」みたいなイメージ的な確立までは至っていない感じです。
「泉」という作品の秀逸さは、男性の小便器というアイテムのセレクトによって、「ゴミとアートの境界」を世界に衝撃的に提示したという点でしょう。
このように、普通の人が「自分の部屋のインテリアに飾っておきたい」とは思わないような作品がアートにはたくさん存在するのですが、一方で、インテリアとして大人気を得た「ラッセン」のような作品は、低俗なものとして(絵画商法という特殊な経緯もあり)、なかなかアートとしては評価されづらい、といったところが「アートとは何か?」を考える上での格好のネタとなっている、というところです。
一方で、「マンガやアニメ」というカテゴリの作品は、アートに興味がない人たちをも集客できるという点では「ラッセン的」ではあるのですが、こちらは、国を挙げて「マンガもアートだ」と位置付けられて、今や、有名美術館やアートフェアなどでは、欠かせない集客コンテンツとしてもてはやされています。
この状態で「マンガはサブカルであり、アートじゃない」等と言おうものなら、「アートの事を全く分かっていない」と袋叩きされて炎上することはほぼ間違いないでしょう。
結局、これらの問題って「アートとは何か」という場合の「アート」というワードの定義に依存するものであり、時代とともに少しづつ意味が変わっていく「コトバ」としての「アート」なのか、それとも、厳密に学術用語上の固定されたワードとしての「アート」なのか、その社会的に統一され共有されたワードとしての定義づけが無い限り、本当は不毛な議論ともいえるのですが。
「イルカやサンゴがいっぱいの美しい海中」という絵が、もし、令和の時代に出現して、その中に「自然環境の保護を訴えるため」という作者のメッセージ性の強い主張が感じられる背景や仕掛け(涙を流すウミガメの絵や、売り上げの一部をウミガメの保護活動に寄付する、とか。いや、実はラッセンも環境保護の運動をやっているのですが…作品はそういう現代アート的な思想が感じられる、といった評価を受けることは少ないようです。)があったなら、「ラッセン」=「ヒロヤマガタ」という図式が崩れて、「ラッセンも現代アート」として大いにもてはやされていたかもしれないのですが、実際は、絵画商法で売れまくった当時、ラッセンが絵の販売会社から注意されるくらいに絵を刷りまくった、という逸話も残っているようですので(真偽は確認してませんが)、当時はまだ、このような自然環境問題が大きく取り上げられていない時代に、単にインテリアアートとして人気を呼んだという社会現象の歴史の1ページとなってしまったと言えます。
因みに生成AIでラッセンっぽい絵と環境保護メッセージを表現したウミガメの絵を作ってみました。インテリアとして部屋に飾りたいのは、左のイルカの絵、現代アートのギャラリーに「展示」されるのは、右のウミガメの方、といった感じでしょうか。
「現代アートとは」というテーマでよく言われていることですが、やはり作品の裏にある作者の生き様や思想、メッセージが表出した作品であることが「現代アート」だとすれば、ラッセンの海の絵には、単に「綺麗で美しい皆が大好きな海をインテリアにどうぞ~!」みたいなメッセージしか感じられないし、そういう売り方だったというのが、アートヴィレッジの人たちから見下される一番の要因な気がします。
ラッセンはヤンキー好み?
とりあえず、そういう厳密な言葉の定義問題は横に置いて、「ラッセン」について、漫画家の「山田玲司」さんの記事で共感した一節をご紹介しておきます。
(以下、引用)
「ラッセンはどうしてバカにされるのか?」
「〜私の中のラッセン〜
ラッセンの絵が「アートなのか?」なんて話はさておき。
あの絵が「安っぽい」とか「嘘くさい」とか言う前に、何で「そんな絵」が売れているのか?ってところが興味深い。
ラッセンの絵は「ヤンキー好み」と言われることが多い。
一時期よく見た、スモーク貼りまくったでかいワゴン車に描かれた「工藤静香」とか「南の海に沈む夕日」とかのアレ的なものに類する、って話です。
デコトラに描かれた鯉だの龍だの虎だの弁天様だのも同じ仲間でしょう。みんなキラキラです。
「歌舞伎」や「ねぶた祭りの絵」に通じる「かっこよさ」なのでしょう。
ヤンキーと付き合いが長いのでよくわかるんだけど、彼らはとにかく「素直」です。
パッと見て「かっこいい」とか「きれい」とか思ったら、それが世間的にどういうものだろうが、クロニクル的にどうであろうが「好き」と言う人が多いのです。
これは、人にバカにされないように必死で「イケているもの」を探しているサブカル村の人たちにはない強さです。
そして、そんなアート村の空気やら何やらを超えて、今思うのは「好きなものは好き」という素直な感性って「とても良い」って事です。
素直すぎるので「これはアートとして価値が合って、資産として買うべきです」なんて、綺麗なお姉さんに言われると「そうかも」なんて、自分の収入に見合わない大金で絵を買わされてしまったりもするわけです。
それは困った話ではあるんだけど、映画にしろ絵画にしろ「これを好きなヤツはイケてる」なんてものに振り回されて、本当は好きだと思っているものをないがしろにするのは悲しい。
何を言われようと「私はイカ飯が好き」と言って物産展を追いかけるカッキーや「ナガブチで号泣」するおっくんのような素直さは、ある種の強さで、大事だと思うんです。
僕だってラッセンの絵に描かれているものは大好きなものばかりです。
イルカにシャチにウミガメに美しい波に月ですよ。嫌いなわけがない。
あまりに過剰サービスなので、イクラとウニとキャビアと大トロの海鮮丼みたいですけどね。
私の中にもラッセンがいて、「あれはあれでいいじゃん!」とも言っているわけです。」
(山田玲司のヤングサンデー第118号:2017/1/16:https://yamada-reiji.com/archives/917)」の一節より引用