ピュアアート、ファインアート、現代アート、インテリアアート、のように「アート」という言葉をつけないといけなくなった現代のアート概念。
しかし、まだこれらは、アートの大きな概念として「自然」に対する「人工」という分類が根底にありました。
では、生成AIが作ったものは「アート」と呼べるのか?それはさすがに「アート」ではないと言われるかもですが…
しかし、まだ人のような思考、感情を持たない現在の生成AIは、一種のデジタルコラージュであり、絵画における絵筆の代わりに過ぎません。
したがって、従来の「現代アート」や「前衛アート」の文脈においては、人が道具としてとして生成AIを使っただけの現状は、「生成AIアート」というべきということになります。
「アートの道具」に、こうした革命的な変化がもたらされた、ということではありますが、生成AIを道具にしたものだけは「アート」とは呼びたくない、という感情的議論もあるはずです。
オノヨーコ等の前衛アートでは、「アートは想像、思考」のような表現、主張を行った際にも、おそらくそんな拡大解釈は認めない、という人たちもいたはずです。
しかし、これらの現代アートも今では「アート」として市民権を得ている以上、同じ定義によれば、今さら議論すら不要な問題ではあります。
しかし、こうした定義の延長には、人間の感情として、ずっと「どちらがアートとして高尚か」、みたいな不毛な議論を延々と続けてはいくこともにもなりかねません。
「アート」という言葉を使いたい理由の大きな要因には、一般の人たちの「評判、人気」を得るための「アート業界の人が嫌う商業的理由=商業カテゴリ的なブランドワード」があるのではないでしょうか。
そうであれば、ARTSTYLIC的な結論は…
「アートという言葉をすててしまいなさい」
(オノヨーコのグレープフルーツ的に言えば)、です。
つまり、これらは同列で優劣を比較すべきものではない「別物」なのだから、もういちいち「何とかアート」というのをやめましょう、ということです。
なんなら、「ピュアアート・ファインアート」とされているものだけを、「アート」として定義し(本来の英語的な意味ですが)、その中でだけ細分化する、
その他は、もはや「アート」という用語を捨てて、別の呼称にしてしまえば、「アートのカテゴリによる優劣」のような不毛な議論に終止符が打てませんか?
そんなわけで、「生成AIアート」ならぬ「アートもどき」の創造物を何と言うべきか、AIとの対話を行って、最後にAIに選ばせた別の呼び方が「アルゴフュージョン」です。
とりあえず、AIを道具として「生成AI創造物」に新たな呼び名をつけるということを試みたこのアイデアがまだ世界で初めてであれば、従来の呼称でいえば「現代アート」ですが…
「アート」は世間に評価されてはじめて「アート」たり得るとすれば、「バンクシー作品」に対する、街中のただの「落書き」程度に過ぎません。
でも、ちょっと長すぎる割に、何のことやらわからないので、シンプルにわかりやすく「NOTART」、AIの作品だから「AI-NOTART」という感じですね。
(やっぱり、しっくりきませんが。)