NOT ART~「現代アート」というラベルを捨てなさい

外部ページURL

「現代」の次の時代のクリエイションとは?

アートというラベルを超えて

― 日常の中にあふれ出る祈りのような創造

自分の生き方、自分のクリエイション。
これを世界に訴えずにはいられない…
その湧き上がる衝動こそが、アートの根源だ。

ジョン・レノンの《イマジン》は、まさにその衝動のかたちだった。
それはジョンが「アートとして作ろう」と意識したかどうかは、今となってはわからないが、
そんなことはどうでもよくて、自分の音楽活動という日常の中で、
自然にあふれ出た祈りのようなクリエイションである、ということが重要だ。

「アート」というラベルの有無は、もはやどうでもいい。
《イマジン》は、現代アートという「アートワールドでの評価=ラベルの獲得」を求める行為ではなく、
自分のいつものクリエイションとしての音楽活動にすぎない。
それがこのテーマの核心だ。

ジョンはオノ・ヨーコの『グレープフルーツ』に深く影響を受け、
“想像すること”そのものを創造の原点として生きた。
こうした活動そのものは、アートを意識したものだが、
それを通じて、ジョンの生き方、思想がすでにアートと一体化していた。
そして、それが自然に、日常の音楽制作というクリエイションの中に流れ込んでいた。

Imagine all the people
living life in peace.

それは、ポップソングという一つのクリエイションの分野の作品として世に放たれた。
スノビズム的なエセ・アートエリートが「低俗なエンタメ」としたがる大衆向けクリエイション。
感性で受け入れることが可能な「ポップソング」に、
自分たちの思想を翻訳したのだ。

それは、「ジョンの魂」というタイトルのアルバムがあるように、
「イマジン」というアルバムもまた「ジョンの魂」にほかならない。
魂の湧きあがったクリエイション…
それは「現代アート」というラベルを付けて評価してきたアートワールドが定義する“アートの本質”にほかならない。

ポップであるかどうか、大衆に向けてわかりやすい形で放たれたクリエイションを
「低俗」「大衆迎合的」と批判することが、いかに無意味なラベル張りであるかを、
この《イマジン》が示している。

感性と知性の往復 ― アートの本質

《イマジン》は、感情の歌であり、同時に思想の詩でもある。
聴いた瞬間に心が動き、
考え始めると、政治や宗教、平和、そして人間そのものへの問いが生まれる。

感じ、考え、また感じる。
この往復運動こそがアートの本質であり、
感性と知性が交わる場所に、創造の核心がある。

ジョンとヨーコが示したのは、
アートを難解な制度の外へと解き放つ生き方だった。
ベッド・インも、ウォー・イズ・オーバーも、
「アートのためのアート」ではなく、
生活そのものがメッセージとなるクリエイションだった。

誰が作ったか ― AI時代における存在の逆転

AIがすべてを模倣できる時代において、
もはや「誰が作ったかではない」などという言葉は成立しない。
むしろ、「誰が作ったか」こそが、すべてなのだ。

なぜなら、そのクリエイションの根には、
その人の生き方、思想、矛盾、痛み、愛…
すべてが刻み込まれているからだ。

アートとは、手法でも結果でもない。
それを生み出した人間の存在そのものが、
作品として立ち上がる時代が、再び訪れている。

「現代アート」というラベルを捨ててしまいなさい

スノビズムを超えて

「現代アート」という言葉は、どこかで“特別な領域”のように扱われてきた。

だが、オノ・ヨーコ的に言えば…

「現代アート」というラベルを捨ててしまいなさい。

理解できる人だけが評価できる。
知識がなければ感じられない。
そうした分断の発想こそ、「現代アート」を狭くしてきた。

「現代アート」を特権的なものと見なす時代は終わり、
いま必要なのは“誰でも感じられる自由な創造”である。
今まで実験されてきた「現代アート」、それはこれからも、形を変えて存在していくだろう。
しかし、もうデュシャンからの地続きな「現代」としてきたラベルは「今の時代」にはそぐわなくなりつつある。

「NOT ART」 ― アートを超えた自由の宣言

「NOT ART」という言葉は、“アートではない”という否定ではない。
むしろ、“もうアートと呼ぶラベルを貼る必要がない”という自由の宣言だ。

感動が生まれたなら、それはもう「NOT ART」。

それは、ラベルを貼る特権をもつアートエリートの評価を不要とする創造であり、
アートワールドの外でも、大衆から共鳴で拡散するクリエイションだ。

マンガでも、詩でも、映画でも、AIの生成でも…
すべては同じ地平に立つクリエイションなのだ。

もちろん、アートエリートの評論家やキュレーターが翻訳するアートも否定する必要はない。
デュシャンの便器以降、「現代アート」というラベルを貼られた、
大衆への翻訳を必要とするアートの存在…
それらは時代的な実験であり、人類文化が一度は通るべき必然だった。
そして、「現代」と呼んでいる一時代の文化として、これからも「アート史」として語られるだろう。

だが、「現代アート」と呼ばれるクリエイションは、
あくまで分類ラベルにすぎない。
そこに上下はなく、どのラベルの作品も同じ地平に立っている。

知識が感動を深めることもあれば、
何も知らなくても心が震える瞬間もある。
感性至上主義と知性至上主義という二項対立に意味はなく、
そのどちらにも格差をつけることはナンセンスだ。

ダントーの予言 ― アートの終焉と再生

20世紀末、哲学者アーサー・ダントーは言った。

「アートの終焉(The End of Art)」が訪れた。

それは“アートの死”の宣告ではなく、
アートが特権的な物語を持たなくなったことを意味していた。
制度がアートを規定する時代が終わり、
アートはその枠を離れた。

だが、枠を外した後も、
「何がアートか」を語りたがる声は残った。
そこにこそ、現代アートの矛盾がある。

何がアートかを決めることなど、もう不要だ。
誰かの心が揺れた時、そこにアートの本質がある…ただそれだけだ。

アートは誰かに許可されるものではなく、
どこかで選ばれるものでもない。
それは、生きることの中から自然に立ち上がる。

AIが模倣を完成させたことで、
かえって人間の「生きること」そのものが、
唯一無二の創造として立ち上がる時代になった。

これからの創造は、形式も理論も超越して、本質に立ち返るだろう。
それを生み出した人の生き様と思想が、
誰かの心に届いて、その心が震えた時…

その人の心の中に生まれた“揺らぎ”こそが、本質である。

デュシャン以降に「現代アート」と呼ばれてきたクリエイションは、
アイデアと方法論をほぼやり尽くした。
そしてAI時代の到来によって、
「現代アート」というラベルで評価されてきた一つの時代は、静かに終焉を迎えようとしている。

その結果、すべてのクリエイションは、
原点に立ち返ることになるのは、必然だ。

多くの人の心を揺らすのか、
たった一人の心に深く刺さり、その人生観を変えるのか…
どちらも、等しく価値ある表現である。

ただ、結果として社会に大きな影響を残したものが、
歴史的なものとして語り継がれるという事実があるだけだ。
それをもって「アートとはこうだ」という議論を繰り返し、誤解してはならない。

「ラベル」の分類の話をしているのか、
「本質」を語っているのか…
その二つを混同しないことだ。

本質的な創造は、「現代アート」というラベルを持つものにも、
持たないものの中にも、等しく存在する。
それは、見る人の心の中に生まれる、
心の揺らぎそのものなのだから。

Presence ― 展示を必要とする創造

在ることを証すための場所

では、これまで「現代アート」と呼ばれてきた“展示を前提とする創造”を、これからどう呼べばよいのか。
その答えが 例えば、「Presence」ということば だ。

  • Presence(プレゼンス) とは、
    作品が単体で完結するのではなく、展示という場を通して初めて成立する創造を指す。
  • 絵画や彫刻のように物として完結するのではなく、空間・光・時間・観る人との関係によって立ち上がる。
  • Presence = 展示によって存在が立ち上がる創造。
  • インスタレーション、パフォーマンス、映像、AI生成など、既存ジャンルに収まらない実践を含む。

展示は“発表”ではなく、在ることの証明である。

この語は、「現代アート」という呼称が孕んだ誤解への反省から生まれた。
“アート”という言葉を使わないことで、上下や格付けの回路から離脱するための中立語なのだ。

偶然ながら、Led Zeppelin のアルバムにも “Presence” がある。
彼らが音で存在を示したように、ここでいう Presence もまた、
場に現れることで存在を示す創造を意味する。

アートを未来へ進めるために ― すべてを同じ地平に

現代アートは無数の実験を経て、ほぼすべてを試し尽くしたのではないだろうか。
(もちろん、具体的な応用編は無限にあるし、それらにもアートとしての価値はあるが…)
そしてAIが創造を拡張したことで、
創造は再び出発点…人間の心へと帰っていく。

未来へ進めるとは、
もはや、新しい技法を発明することではない。(それもあってもいいが…)
感じることを取り戻すことだ。

アートを未来へ進めるために、
すべてを同じ地平に。

岡本太郎が語ったように、

「アートは大衆の中にこそあるべき」

この言葉が、AI時代の現在において
あらためて息を吹き返している。

創造は特権ではなく、日常の中の呼吸であり、
生きることそのもの。
そしてそのすべての営みは、
湧き上がる衝動としてのクリエイションに帰っていく。

Presence ― 展示によって存在が立ち上がる。
それは、「現代アート」というラベルの次に貼る新しい時代の中立名である。
しかし、それは上下の格付けを意味しない。
ポップソングも、文学も、映画も、マンガも、工芸も、建築も、そして「プレゼンス」も
すべてはただ、同じ地平の上に在る「クリエイション=創造的表現」なのだ。

Appendix:NOT ARTをめぐる対話

1. 「すべてを同じ地平に置くのはアートの価値を壊すのでは?」

応答:
アートの価値は壊れない。むしろ、解放される
ヒエラルキーを解体することは、評価を放棄することではない。
どの表現も、心の揺らぎを生む力がある限り、同じ地平に立つ。

2. 「感動を基準にしたら主観的すぎる」

応答:
主観とは、最初の共有点だ。
感動を無視して理論だけで語ることこそ、アートの死である。
感動とは、知性を動かす起点であり、アートの原初的呼吸だ。

3. 「専門的訓練を受けたアーティストを軽視していないか」

応答:
訓練は否定していない。
ただ、訓練がアートの資格ではないというだけだ。
技術は感動を運ぶ器。器が魂を支配してはならない。

4. 「AI時代に“誰が作ったか”を重視するのは逆行では?」

応答:
AIが模倣を極めた今こそ、
人間の生き方そのものが創造の証になる時代だ。
作者とは名前ではなく、存在そのものだ。

5. 「Presenceという新語もまたラベル化している」

応答:
Presenceも確かにラベルだ。しかし現象を説明するための中立語だ。
アートという語が持つ格付けのニュアンスを避けるため、
あえて“アート”を使わずに、展示によって存在が立ち上がる創造を示す。

つまり、「そうはいっても分類ラベルが無いと困る」と言うのが人の世の常だ。
それは尊重しよう、ということだ。

6. 「感性と知性のバランスが曖昧」

応答:
感性と知性は対立しない。感性は知性によって揺らぐものだ。
そして、知性は感性によって沸き立ち、深まるのだ。
考えるために感じ、感じるために考える。
この往復運動こそが創造の営みだ。

7. 「現代アートはまだ終わっていないのでは?」

応答:
終わったのは「アートのラベルを得たものを格上のアート」と誤解する「スノビズムアートの時代の終わり」だ。
今も創造は続くが、それは「アート」というラベルの有無を問わない時代へと移った。
“終焉”は“再生”の入口だ。

8. 「『現代アートを捨てろ』は反知性主義だ」

応答:
反知性ではない。
むしろ、知を誰もが使える場所に取り戻す運動だ。
知ることも、感じることも、どちらも自由の領域にある。
「感性至上主義」も「知性至上主義」も実は間違っている。
むしろ「知性忘却主義」「感性忘却主義」とでも言うべきである。
知性を忘れた感性は危険だし、感性を忘れた知性も危険だ。

そのどちらも判断を誤りがちだということだ。
「現代アート」を捨てるとは「現代アートというラベル」を捨てる、
と言う意味であり、むしろ知性を尊重しているのだ。

9. 「NOT ARTもアート語彙の中にある矛盾」

応答:
矛盾は意図的だ。
「NOT ART」は、アートを超えると同時に、
アートを脱構築する過程そのもの。
ラベルを脱ぐためのラベルだ。
長い説明を要する「クリエイション」に、一定の短いネーミングのラベルはどうしても必要だろう。

10. 「感動=アートの本質」は危険では?」

応答:
ここでいう感動は、
「考えることを促す揺らぎ」だ。
操作的な感情とは違う。
思考を伴う感情こそ、人間だけが持つ創造の共鳴である。
また、アートの本質は「感動による知性と感性の往復だ」と言っているのであり、この指摘は誤読である。

最後に

批判とは、思想が生きている証拠である。
『NOT ART』が批判されるということは、
人の心が、再び揺れたということ。

つまり―
批判こそが、NOT ARTの実践そのものである。

 

「POP ART DECO」シリーズのご案内

生活の中の身近なアートこそ感性と知性をつなぐきっかけになるかもしれません。

「ポップアートを超えたポップアートとは?」

 

 


【PR広告】 広島県福山市にある古民家カフェ&雑貨「Kiyo」の雑貨店「Kiyo Gocochi」 大人はもちろん、お子様のアート心を刺激する、ハンドメイドの「編みぐるみ」等のかわいい相棒たちをオンラインでも販売しています。お子様やお孫さんへの誕生日のプレゼントにいかがでしょうか。

 

 

編みぐるみや、オリジナルのゆるキャラ「ふうせん地蔵さま」や「Kiyoにゃん」等をモチーフにしたグッズも販売中です。


▶「Kiyo Gocochi」の編みぐるみから生まれた「Kiyoにゃん」の缶バッジのポップアート(?)フレームも販売中です。

ブログ一覧