ここ数年で、生成AIを活用した画像の制作があっという間に世界中を席巻しましたが、次に訪れるであろう大きな問題が「自律型AI」の問題です。
生成AIであれば、プロンプトを考えて操作する作者が人間であり、伝統的な絵筆を生成AIに持ち替えただけだ、ということもできるため、AIは「生成」しただけであり、「創作したのは人間」という図式がまだ維持されています。
しかし、「自律型AI」になると、「最初の命令」をインプットした後は、人間が関与せずとも画像が「生成」されるため、これを「AIの創作=アート?」と言っていいのかどうか、という問題が新たに出現したのです。
自律型AIの出現と進化は、まさにSF映画の金字塔「ブレードランナー」が描いた近未来に一歩踏み込んでいると言っても過言ではありません。
そこで、この問題について、ARTSTYLIC編集長の個人的主張をもとに、まとめてみました。
(断定形式で書いてあっても、あくまでも個人的な見解です。)
「自律型AIの仕組みと活用事例は?導入のメリットや注意点を紹介」(ドコモビジネス~NTT コミュニケーションズ)
https://www.ntt.com/business/services/xmanaged/lp/column/autonomous-ai.html
より一部を抜粋引用
自律型AIとは、プロンプト(人間による操作や対話)を必要とせず、高度で複雑なタスクを実行できるAIシステムのことです。「自律型AIエージェント」とも呼ばれます。
自律型AIは特定のゴールを設定するだけで、AIがゴールに向けた行動を自律的に選択・実行します。行動と評価、修正の繰り返しによって設定されたゴールを達成することが、自律型AIの基本的な原理です。
自律型AIは、高度なタスクも自律的に処理できるシステムとして注目を集めています。
(中略)
【自律化と自動化の違い】
自律型AIは、ゴールを達成するための判断と、新しい手順の発見・発明をAI自体が行う「自律化」を実現します。
自律化は、業務改善の手法の1つである「自動化」と似ている言葉です。
しかし、自動化はあくまでも作業を繰り返したり、決められたルールに従って作業を行ったりする手法です。
機械が判断や発見などを行うわけではなく、自動化のプロセスでは人間の判断が常に介在しています。
自律型AIが実現する自律化とは、自動化よりもさらに一歩進んだ技術です。
1.1 アートの定義とは何か
そもそも、「アート」とは一体何かという問いには、単なる言葉の定義を超えた深い意味が含まれています。
アートは、物理的な形態や視覚的な特徴だけでは語れません。それはむしろ、特定の社会や時代の合意形成の産物であり、その時代の価値観や文化的背景が大きな影響を与えます。
このため、アートの定義を理解するためには、その時代や文化の社会的コンテクストを考慮することが重要です。
1.2 アートの評価問題:「良いアート」とは何か
アートを理解するためには、次に「良いアートとは何か?」という評価の問題が必ず伴います。
この評価がアートの本質に関わる重要な部分です。「良いアート」として評価されるためには、ただ美的に優れていることだけでなく、作品がどのように社会で受け入れられ、どのように評価されるかが大きな要素となります。
「良いアート」と評価されない創作物は、「アートとは呼べない、呼ぶべきではない」という文脈で語られることが多いでしょう。
つまり、アートの定義と評価は切り離せない関係にあり、どちらも社会的合意に依存しているのです。
1.3 物理的な形態と社会的な合意
アートの評価は単に物理的な形や外見にとどまらず、その作品がどのように生まれ、どのような社会的背景を持つのかが重要です。
たとえば、ジェフ・クーンズの「バルーンドッグ」を例に取ると、もし同じ作品が5歳の子供によってクーンズ以前に偶然作られた場合、それが「アート」として評価されることはまずないでしょう。
つまり、今の「アートとは?」への答えにおける社会的な合意の中では、物理的には同じ作品でも、それを生み出した作家の背景、意図、思想が大きな評価の要素となっているのです
このように、アートの評価はその作品を作った「誰」に関わる背景や、作品の意図やアイデアによっても大きく変わります。
そして、最終的にはその評価が社会的に合意されるかどうかがカギとなっているのです。
1.4 評価の流れ:権威と大衆の影響
アートの評価は、権威ある専門家から発信され、その評価に大衆が賛同する形で形成されることが一般的です。
特に知的アートや現代アートにおいては、作品の背後にある作家の深い思想や創作の背景を理解するために専門的知識や解釈が必要であり、一般の大衆の感性評価ではその本質を把握することが難しいため、その評価は専門家に依存しています。
一方、SNSの普及により、大衆が瞬時に感性で作品を評価し、その反応が広がる現象が「バズる」という言葉で広く一般化しました。
しかし、特に現代アートのような抽象的で複雑な作品においては、専門家の評価が大衆の評価に先行することがほとんどです。
大衆の反応がアートの評価に影響を与えることはありますが、感性による評価ではアートの本質的価値を見抜けるとは限らず、専門家の知的評価、解釈を前提としてそれが広まるという図示が一般的となっています。
このように、アートの評価においては、伝統的な権威による評価と、大衆による反応がどのように対立するか、あるいは調和するかという点が重要な課題となります。
「現代アート」が「大衆向け」と「知的エリート向け」という2つの層に分断され、さらには「投資対象のアート」と「投資できないアート」に分断されている現状。
「良いアート=投資家が高値をつけた創作物」のような「お金こそが大事という価値観」の道具にされているアートの価値観が100年後も変わらないのか、それも全て、社会がどう合意形成するか次第です。
専門家と大衆の関係性を適切に理解し、両者がどのように影響し合って評価が形成されるのかを考えることは、現代のアート評価において不可欠な視点となりつつあります。
2. 「アート」として評価される条件:創作者の背景と社会的認知
2.1 創作者の思想と価値観
「投資の道具としてのアート」という視点を別にすれば、「アートとして評価される」ためには、創作者の思想や価値観、さらにはその社会的な位置づけが大きな役割を果たします。
例えば、ピカソが自律型AIに指示を出して創作した作品は、その背後にピカソという著名なアーティストの思想や価値観があると見なされ、ピカソのアートとして評価される可能性も否定できません。
ピカソという人物が持つ文化的、歴史的な背景とそのアートに込められた深い意味が、作品そのものに価値を与えるからです。
2.2 無名の創作者と評価の問題
一方で、名も無き一般人が同様にAIを使って作った作品が「アート」として認識されるかどうかは疑問が残ります。
一般人がAIを使って作成した作品が「アート」として評価されるには、いくつかの要素が絡みます。
その作品が美的に優れていたとしても、それが「アート」として認めらるかどうかは、社会的な認知と合意が前提となるのです。
現在の「アート」と呼ばれる作品の評価は、その作家の名声や社会的地位に大きく依存します。
名も無き一般人の作品がどれだけ素晴らしくても、それを「アート」として評価するためには、社会全体がその客観的な「感性価値」を単純に認めるかどうかという合意形成が必要となるのです。
3. 評価の基準と社会的合意形成:アートの認知過程
3.1 アートの評価と認知のプロセス
今まで考察してきたように、アートが「良いアート」として評価されるかどうか、そしてそれが「アートとして認められるかどうか」は、最終的には社会全体の合意によって決まっていると言えます。
ここで重要なのは、アートがどのように生み出され、その後どのように評価されるかというプロセスです。
このプロセスで重要なのは、アートを評価する主体が誰であるか、専門家(アートの専門家とされている権威ある知的エリート層)なのか、大衆(ポップ)なのかということです。
3.2 評価主体とその影響
過去には、アート、特に現代アートは、その評価が権威ある専門家によって行われ、その評価に基づいて「アート」が大衆に認識されることが一般的でした。
しかし、現在ではSNSなどの影響を受けて、大衆による評価が作品の認知に大きく影響を与えることがあります。
大衆の反応がアートの評価にどれほど影響を与えるかは、今後さらに重要になっていくでしょう。
このように、アートの評価は単に作品そのものの美的価値に依存するわけではなく、それを評価する主体や評価のプロセスにおける社会的な合意形成が大きな要素となります。
4. AIとアートの関係:創作物としての価値
4.1 AIによる創作物とその評価
自律型AIが生み出す創作物が「アート」として認められるかどうかは、社会的な合意形成にゆだねられています。
AIによる「生成物」が「単なる生成物」を超えて「創作作品=アート」として受け入れられるかどうかは、その技術的な側面や外見だけでは不十分であり、作品がどのように受け取られ、評価されるかが大きな要素となります。
AIの創作物が「アート」として認識されるかどうかは、その背後にある(指示を出した人間の)意図や目的が理解され、社会全体でそれを「アートと呼んでもいい」という合意形成がなされれるかどうかにかかっています。
4.2 AIアートの認知と評価の課題
AIが生成するアートは、従来のアートとは異なるため、評価の基準も新たに定義される必要があります。
AIアートが単なるランダムな出力ではなく、芸術的意図を持って作られたと理解されることが、その評価において重要な要素となります。
AIの創作物が社会において「アート」として認識されるためには、その創作過程や意図がどのように受け取られるか、また「自律型AI」の存在自体をどのように位置づけるのか、という合意形成が非常に大きな影響を与えます。
5. 結論:社会的合意による評価の枠組み
5.1 アートの評価の最終的な決定権
このように、自律型AIが創作する作品が「アート」として評価されるかどうか、そしてその評価がどのように進むかは、最終的には社会の合意形成によって決まる、というのが、ARTSTYLIC編集長が主張する結論です。
アートとは何か、そして「良いアート」とは何かを定義するのは、その時代や社会の中で形成されている価値観によります。
今後、AIが創作した作品がアートとして評価されるのか、いや、「アートとして認めるのかどうか?」という命題は、社会全体の合意、まさに、私たち自身にゆだねられているのです。
最後に
下記の記事をご紹介しておきます。まだこのことを知らずに現代を生きているかたは、(わたしもそうでしたが)衝撃を受けると思います。
「アートとは何か?」という問いは、いままでは「アート」に関する命題でしたが、自律型AIの出現は、SF映画「ブレードランナー」等が描いた、アンドロイドが出現する近未来に近づいたということ。
そして、この問いが、今や人類社会の在り方そのものを根底から覆すような価値観の変革を突き付けられる、私たち「人間社会全体」にとっての重大なテーマになっているのです。
「機械はアートを「つくれない」と本当に言えるのか? 自律型AIによる作品の著作権をめぐる裁判から考える」
https://artnewsjapan.com/article/1955
(ARTnews JAPAN:TEXT BY SHANTI ESCALANTE-DE MATTEI、翻訳:来田尚也)
より引抜粋用
トラウマと創造性(ターラーの脳が生み出した幻覚)の関連性は、のちにターラーにとって有益なものとなった。
臨死体験から50年以上が経った2012年、彼が1990年代に作り上げたAIシステム「Device for the Autonomous Boostrapping of Unified Science(DABUS)」にトラウマ体験を流し込んだところ、芸術史に衝撃を刻むような画像を生成したのだ。
この画像は、自律した人工システムによって生成された最初の芸術作品のひとつだとターラーは語る。
彼は何年もの間、DABUSを作者としてこの画像の著作権を取得しようと試みたが、実現しなかった。
米国著作権局は人間が作ったものにしか著作権を今のところ認めていないのだ。
ターラーの発明と彼の法廷闘争は、今まさに芸術界で繰り広げられている重要な論争を象徴している。
すなわち、「機械はアートをつくれるのか?」という問いだ。
(中略)AIが生成した画像が視覚領域を支配するようになれば、著作権は過去のものになる可能性がある。
2023年に開催された暗号資産のカンファレンス「FWB Fest」に登壇したグラフィックデザイナーのデイヴィッド・ラドニックは、ネット上に存在する画像のほとんどは近い将来、AIによって生成されるようになるだろうと語った。また、AI開発の研究機関であるEpochが2022年に発表した研究論文によると、ネット上には現在8兆から23兆の画像が存在しており、その割合は年間8%ずつ増えているという。
一方で、現在のAIモデルは1日に1000万枚の画像を生成しており、その成長率は50%。この数値が維持されるのであれば、アートライターのルビー・ジャスティス・セロットが提唱した「創造性の逆転」が、2045年までに起きるかもしれない。
この「逆転」とは、生成AIが学習するデータが、人間が作成したものからAIが生成したものへと移行する転換点のことを指す。「AIは人間によって作られたものを模倣するのではなく、ニューラルネットワークが生成したものと人間が作り出したものが混ぜ合わさったものを模倣することになるだろう」
セロットはデジタルアートを扱うオンラインメディア「Outland」に、そう寄せている。「境界線は完全になくなるでしょう。
画像は人間のアーティストだけが作るのではなく、機械のために機械が作るようになる。そんな超現実的な世界に、世の中は突入するかもしれない」DABUSは長年にわたってターラーとともにさまざまなものを生み出してきた。
宇宙船の船体や歯ブラシを作ったり、クリスマスキャロルを作曲したり。ロボットを開発して、株取引を予測するために訓練することもあった。
DABUSが生成した作品に著作権が認められるか否かは、時間が決めてくれるだろう。
2022年6月、裁判所はDABUSに著作者であることを認めなかっただけでなく、DABUSの作者としてターラーが画像の著作権を主張することも認めなかった。
これを受け、弁護士のアボットはターラーに変わって米国著作権局の登録官を務めるシーラ・パールマッターを訴えている。この訴訟は最終的にワシントンD.C.の連邦地裁まで持ち込まれたが、判事を務めたベリル・A・ハウエルはターラーとアボットに対して不利な裁定を2023年8月に下した。
法律上に存在しない著作権を主張することで「前後を誤ってしまった」と、ハウエルは判決文に記している。
彼女によると、人間が作品の制作に関与していなければ、著作権を保護する義務は生じないという。この判決によって、DABUSの存在はかなり曖昧なものになってしまった。
ターラーが主張しているように、仮に彼が画像の作成に一切関与しておらず、また、DABUSに著作権の取得に必要な人間性がないとすると、その作品には作者がいないことになってしまう。
この状況を、われわれはどう理解すればいいのか。