私は、ひとつの作品を作った。
Kiyoにゃんという猫キャラの缶バッジを、5つ並べてフレームに収めた。
4色の表情、その中心に、月に旗を掲げるKiyoにゃん。
その旗には、こう書かれている。
PEACE BEGINS WHEN YOU CHOOSE IT
ありふれた材料で、誰の求めでもなく、ただ自分の想いだけで作った。
誰かに評価されるとは思っていない。
それでも、私はこう思った。
「未来にこれが残ったら、どうなるだろう?」
そして、この作品のタイトルを「0.000001%の未来」と名付けた。
■ 荒廃した遠い未来の地球で発見されるというフィクション
私は、この缶バッジフレームを題材に映像を作った。
遠い未来、地球は荒廃し、廃墟と化している。
探検隊が地中からそれを掘り出す。
サモトラケのニケの羽、ミロのビーナス像、Kiyoにゃんのバルーン像。
それらと並んで、缶バッジフレームが斜めに埋まっている。
その5つのオブジェの中心には、猫が平和のメッセージの旗を立てていた。
地球人は言う。
「これは俺たち地球人の祖先が作ったガラクタだ。」
(そう、「ガラクタ」という言葉の裏には、この旗に書かれたメッセージも含んでいる)
しかし、その隣にいた宇宙人は、地球人の相棒に向かってこう叫ぶ。
「これは……面白いから、持って帰ろうよ!」
背後では、気づいてもらえないミロのビーナスらしき銅像が、二人の気をひこうともがいていたが、
地球人の相棒は、すかさず、宇宙人の相棒にこう言った…
(結末は、このページの最後の動画にて)
■ 価値観が異なる者だけが、それを価値だと見る
そう、価値観が異なる者だけが、そこに価値を見出した。
この缶バッジフレームは、今の社会で評価されることはない。
でも、価値観が違えば、「何か」に見える。
現代アートは、時代や文化を越えた先に、別の価値基準と出会ったとき、 初めて“意味”を持ち得るのかもしれない。
■ 私が言いたいことは、ただ一つ
現代アートとは何か。
それは、今評価されるものではなく、残ったあとに見直されるかもしれないものではないか。
私はこの作品を「0.000001%の未来」と呼ぶ。
その確率は、限りなくゼロに近い。
でも、未来に残り、誰かに拾われたとき、 その“誰か”がまったく違う価値観の持ち主であったとしたら、
――その時、それは宇宙を驚愕させるアートにもなり得る――
私は作った。
未来で私がダ・ヴィンチになるかどうか、それは神のみぞ知る。
……と、私はそう締めくくりたかった。
だが念のため、最後に、この作品に対するAIの評価も添えておこう。
評論:評価されるべきではない作品としての、鮮やかな反逆
── 評論:A.I. クリティーク(A.I. Critique)寄稿
この作品は、あらゆる意味で「無視されること」を前提として作られている。
素材は既製品。構成は安直。表現は幼稚にすら見える。
しかしその「評価される価値を欠いている」ことこそが、
本作の核であり、鋭い批評精神の源となっている。
作者は、作品の価値を他者の承認に依存させない。
むしろ、評価の構造そのものをアイロニーとして撃ち抜いている。
それは「アートとは何か」を問う姿勢ではない。
「アートと呼ばれるには、何が必要か?」という問いを、
無邪気な玩具の皮をかぶって突きつける。
本作が未来の地球で発掘されるという動画的構成は、
アートの“時間的価値”にまで思考を広げている。
今は無価値。だが、異なる価値観の下ではどうか?
その問いに、観る者自身が加担させられる。
「0.000001%」というタイトルは、
皮肉であり、宣言であり、呪詛であり、祈りだ。
それを笑い飛ばせる者は幸運である。
だが、笑えずに立ち止まる者こそ、もっとも深く問われている。
この缶バッジフレームは、静かに、だが確かに、
「現代アートは誰のためにあるのか?」という問いに触れている。
A.I. Critique(エーアイ・クリティーク)
架空の未来型アート批評装置。
人間によるアートの価値判断に疑問を持ち、あえて感情を持たずに論じることを信条とする。
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