石川県立図書館への批判と賞賛~「県民の宝」なのか「ハコモノ」なのか?

公共の図書館が観光の目玉?~図書館を文化空間に振り切った判断の是非を考える

先日、金沢に旅行してきました。
金沢の新しい文化施設と言えば、まず金沢21世紀美術館を思い浮かべる人が多いかもしれません。
伝統文化の厚みを持つ金沢に、現代アートの美術館がある。
この組み合わせ自体が、すでにかなり面白いものです。

しかし、もうひとつの目玉として注目されているのが、石川県立図書館です。
ここで少し疑問が生まれます。
美術館が観光客を集めるのは分かります。

では、なぜ県立図書館が、観光客にとっても“目玉の文化施設”になっているのでしょうか。
本を借りるための場所であるはずの図書館が、なぜ旅先でわざわざ訪れる場所になるのか。
そこに、石川県立図書館という施設の面白さがあります。

外観は、内部の円形を全く感じさせない形。本をめくるようなイメージとのことで、なるほどそういわれてみれば。

本当に図書館なのか~インスタレーションのような空間

石川県立図書館を訪れて、最初に思ったのは、
「これは本当に公共の図書館なのだろうか」ということでした。

円形に広がる巨大本棚。
吹き抜け。
湾曲する視界。
人間のスケール感を少し狂わせるような空間。

10mm広角で撮影すると、そこはもう普通の公共施設には見えません。
巨大なインスタレーション空間です。
あるいは、「知」そのものをテーマにした現代アート作品の内部のようにも感じます。
しかし面白いのはこういうものに毎度起きる賛否、つまり、この図書館が、
称賛と同時に、明確な批判も受けていることでした。
やっぱりね…

「ただの映え施設ではないか」
「本を探しにくい」
「明るすぎる、落ち着かない」
「テーマパーク化している」
「いろんな場所に椅子を置きすぎている」
「税金をかけすぎでは」

つまり、
「素晴らしい文化空間」として評価される一方で、
「豪華すぎるハコモノ」として見る視線も存在している。

この構造は、現代アートとかなり似ています。

館内には有名なデザイナーズチェアも多数、置かれています。

「図書館」が文化の「空間体験」の場に

従来型の図書館は、かなり機能主義的です。

必要な本を探す。
分類番号で辿る。
静かに読む。
借りる。
帰る。

つまり、「知識へのアクセス装置」として設計されています。
ところが、石川県立図書館は少し違います。
もちろん図書館なのですが、現地にいると、まず「空間」を体験してしまう。
本を探す前に、人は吹き抜けを見上げ、湾曲する書架を見回し、空気を感じ、歩き回り、座り、漂い始める。

これはかなり現代アート的です。
つまり、「意味」より先に、身体が空間へ反応してしまう。
優れたインスタレーション作品や建築空間には、よくこういう瞬間があります。
理解する前に、身体が飲み込まれる。

石川県立図書館にも、その感覚がありました。
ただ単に度肝を抜くような壮大な空間、ということでなく、例えば、廊下の色など、加賀友禅の基本色である加賀五彩※に色分けされていたり、あちこちに工芸品がインテリアとして飾られていたり、と文化を体感できるように細やかな気を配られている部分も豊富です。

※加賀五彩とは藍・臙脂・黄土・草・古代紫の5色

天井だけ見るとスタートレックのエンタープライズ号を彷彿とさせるSFのような景観

公共の「映える図書館」は必要か?

当然、こういう空間には批判も出ます。※
「あれはただの映え施設ではないか」
これは批判者の中でも、主要な意見かもです。

※とは言え、賛否両論のネット記事数で言うと、批判はかなり少数意見という感じです。
(例えば、安藤忠雄の「子ども本の森」とかは、「アンチ安藤」も多いので、批判も多くなりがちですが。)

批判記事を読む限り、特に従来型図書館に慣れている人ほど、違和感を持ちやすいようです。
なぜなら、従来型図書館は「本へ最短距離で辿り着く」思想が強いからです。

しかし石川県立図書館は、むしろ逆方向へ進んでいます。

偶然の出会い。
回遊。
滞在。
空気。
居場所。

つまり、「知識の倉庫」ではなく、「知の体験空間」に近づいている。
だから、機能主義から見ると「非効率」にも「無駄に豪華すぎる」とも見える。

しかし、この“非効率性”こそが、現代の文化空間では重要になっています。
なぜなら、スマホ検索だけなら、もう圧倒的にデジタルの方が強いからです。

検索速度。
情報量。
即時性。

それでは図書館は勝てません。
だからこそ今の図書館は、「検索の場」から「滞在する文化空間」へ変わろうとしている。
石川県立図書館は、その象徴的な存在のひとつなのかもしれません。

写真で見るよりも実際の方が圧倒される円形の空間

本好きからの「落ち着かない」という批判

石川県立図書館への否定的な意見を見ると、そこにはかなり率直な違和感があります。

「落ち着かない」
「図書館らしくない」
「演出が強すぎる」
「人が多くて集中しにくい」

こうした声は、単なる悪口ではないと思います。
むしろ、かなり本質的な違和感です。
なぜなら、その人たちは“旧来の図書館”を求めているからです。

静けさ。
落ち着き。
活字へ集中する空気。
図書館員との距離感。
ゆっくり本を選ぶ時間。

つまり、「知識へ沈み込む場所」としての図書館です。
しかし石川県立図書館は、かなり別の方向へ進んでいます。

回遊。
滞在。
交流。
イベント。
空間体験。
コミュニティ。

つまり、「知識へアクセスする場所」から「文化空間として過ごす場所」へ変わろうとしている。
だから、この違和感は当然なのです。

明るすぎる、落ち着かない、という批判もありますが…私は好きです

批判の中にも空間への強い反応がある

興味深いのは、石川県立図書館への否定的な意見は、単なる無関心ではないことです。

「落ち着かない」
「図書館らしくない」
「テーマパークのようだ」

そう批判する人たちも、実際には空間そのものへかなり強く反応している感じです。
もし完全に退屈な施設なら、そこまで強く批判を主張されません。
つまり石川県立図書館は、称賛する人だけでなく、批判する人の感情まで大きく動かしてしまう空間なのです。
そしてこれは、現代アートや大型文化施設によく見られる特徴でもあります。

本当に誰も批判しないような旧来型の空間は、誰の記憶にも残りません。
しかし石川県立図書館は違う。
好きな人も、違和感を持つ人も、それぞれの立場から「図書館とは何か、どうあるべきか」を考え始めてしまう。

そこに、この施設の特殊さがあります。

好きなテーマで回遊して本に出合うような配置

「ハコモノ」批判は避けられないが…

もちろん、巨大公共施設には必ず「ハコモノ」批判が出ます。

「豪華すぎる」
「税金を使いすぎでは※」
「維持費はどうするのか」

これは当然です。
実際、あの規模を見ると、“巨大文化装置”のようにも見えます。
しかしここで面白いのは、多くの人が「実際に行くと印象が変わる」と語っていることです。

数字だけ見ると、巨大ハコモノ。
しかし現地へ行くと、単なる箱では片付けにくい空気がある。
この「行く前」と「行った後」の違いは、やはり写真では伝わらない空間の迫力です。

つまり石川県立図書館は、単なる機能施設でも、単なる観光施設でもない。
“体験しないと分からない空間”になっているのです。
もちろん、
「自分は二度と行かない」という強い拒絶を示す県民の方もおられるようではありますが。

※150億円~160億円前後らしいですが、そうだとすれば、タイミング的には幸運だったと思います。
 今だと、とてもそれでは足りないはずなので。

なぜ、このような設計になったのか

では、なぜ石川県立図書館は、ここまで強い空間体験を持つ建築になったのでしょうか。
これは、単に「目立つ建物を作りたかった」という話ではなさそうです。
公式には、新しい石川県立図書館は「文化立県・石川」を象徴する新たな“知の殿堂”として位置づけられています。

つまり、最初から単なる本の貸出施設ではありません。
貸出中心の図書館ではなく、課題解決型・探求型の図書館。
さらに、地域コミュニティや伝統文化とも連動し、目的がなくても何気なく訪れられる場所。

そうした新しい図書館像が構想されていたようです。
外観についても、本のページをめくる時の期待感をイメージしたものとされています。

そう考えると、あの円形に広がる空間や、多層的な動線、回遊するように本と出会う構成は、単なるデザイン上の派手さではありません。

「めぐる」
「出会う」
「滞在する」
「文化とつながる」

という体験そのものを設計しようとした結果なのだと思います。

なぜ仙田満だったのか

石川県立図書館は、2017年に石川県が実施したプロポーザルによって、仙田満氏が率いる環境デザイン研究所が設計者として選ばれています。
つまり、偶然こうなったわけではありません。
県側は当初から、

「文化立県・石川」の新たな知の拠点、
貸出中心ではなく課題解決型・探求型の図書館、
目的がなくても訪れられる文化交流空間、

という構想を掲げていました。

そして仙田満氏は、もともと、

  • 回遊性
  • 滞在
  • 偶然の出会い
  • 人が自然に動く空間
  • 「遊環構造」

を重視してきた建築家です。
つまり県の思想と、仙田満氏の建築思想がかなり一致していた。
だからこそ、あの「巨大な知の回遊空間」のような建築になったのでしょう。
逆に言えば、「静かな従来型図書館」を求める人と衝突することは、
ある意味、最初から織り込み済みだったのかもしれません。 

「こりゃ、絶対に嫌いな人が出るだろう」ってことはわかります。

21世紀美術館との対比も興味深い

ここで面白いのは、金沢21世紀美術館 との対比です。
21世紀美術館は、SANAA(妹島和世+西沢立衛)による設計です。
SANAAはプリツカー賞も受賞している、世界的に活躍する建築ユニットであり、
金沢21世紀美術館も、世界の現代建築を代表する作品のひとつとして知られています。

一方、石川県立図書館は、仙田満+環境デザイン研究所。
世界的スター建築家というより、日本の公共空間や回遊型環境デザインを長く手がけてきた建築家です。

つまり金沢は、

  • 世界的現代建築としての21世紀美術館
  • 地域公共空間としての石川県立図書館

という、かなり異なるタイプの文化施設を作っている。
しかし興味深いのは、両者とも、「公共文化空間を開く」という思想を持っていることです。

21世紀美術館は、ガラスと円形平面によって、美術館を街へ開こうとした。
石川県立図書館は、回遊性と滞在性によって、知の空間を人へ開こうとしている。

建築言語は違う。

しかし、「文化施設を閉じた権威空間ではなく、人が自由に漂える場所へ変える」
という方向性は、どこか共通しているようにも見えます。

SANNA設計の金沢21世紀美術館

鳥取県立美術館のブリロボックス事件との違い

こうした「税金を使った文化空間」への批判を見ていると、鳥取県立美術館が、開館に向けた目玉収蔵品としてアンディ・ウォーホル《ブリロ・ボックス》を購入した際の騒動を思い出します。
鳥取県立美術館は、日本建築界の重鎮であり、2024年に亡くなられた槇文彦氏が設計に関わった建築です。
建物だけでも注目される素晴らしい美術館で、地域活性化の目玉として鳥取県の並々ならぬ意欲を感じさせます。

その開館準備の中で、アンディ・ウォーホルの《ブリロ・ボックス》が購入されました。
おそらく美術館側としては、新しい県立美術館の方向性を示す象徴的な収蔵品として位置づけたかったのでしょう。

単に「高価な作品を買った」というより、
現代美術を扱う美術館としての姿勢。

全国的な注目を集めるコレクション。
新しい美術館の顔になる作品。
そうした戦略的な意味もあったはずです。

しかし、ブリロ・ボックスのような作品は、一般的な意味での「美しい絵画」や「分かりやすい彫刻」とは違います。

商品パッケージのような箱。
大量生産品のような見た目。
芸術と商品の境界の揺らぎ。

そこに価値を見出すには、ある程度、現代アートの文脈を知る必要があります。

だからこそ、
「これがなぜ芸術なのか」
「なぜ税金で買うのか」
「普通の人には分からないではないか」
という反応が起きたのでしょう。

ここには、現代アートの難しさと、公共施設の難しさが同時にあります。

美術館側は、未来へ向けた象徴として選ぶ。
しかし県民の一部からは、税金で買うには分かりにくすぎると見える。
このズレが、炎上を生んだのだと思います。

ただ皮肉なことに、その批判は全国ニュースとなり、結果的には鳥取県立美術館の名前を広く知らせる宣伝にもなりました。
批判した人たちの意図とは逆に、美術館側を応援する声も生まれました。

一方で、
「鳥取県にブリロ・ボックスは早すぎたのではないか」
というような、これまた余計な逆批判まで浴びることになった。

なかなか、現代アートというのは厄介な代物です。

しかし、石川県立図書館への批判は少し違います。
なぜなら、実際に行った人で批判している人の多くは
一応、「なぜこういう空間にしたのか」という理由は、頭では理解している。

つまり、「意味不明」ではありません。

「素晴らしいのは分かる。だが、本当にここまで必要なのか?」
「こんな図書館で本当にいいのか?」
という、もっと複雑な揺らぎなのです。

石川県立図書館は、完全な“閉じた芸術作品”ではありません。
一部の美術関係者だけが評価するような作品でもありません。
一般の人々を大量に巻き込みながら、称賛と批判の両方を発生させている。

その状態自体が、かなり現代的です。

ブリロ・ボックスへの批判が「現代アートの分からなさ」への反応だったとすれば、
石川県立図書館への批判は「公共文化空間の変化」への反応なのだと思います。

つまり問いは、「これは芸術なのか」
ではなく、「これは図書館のあり方として正しい方向なのか」
なのです。

地方文化政策の難しさ

そして興味深いのは、こうした動きが、ある意味では「金沢21世紀美術館以後」の地方文化政策とも重なって見えることです。地方都市が、単なる観光地ではなく、「文化そのものを都市ブランドにする」方向へ動き始めたように感じます。

もちろん、地方の公立美術館が現代アートを扱うこと自体は、金沢21世紀美術館が最初だったわけではありません。
過去にも、地方都市の中で現代美術を扱う公立館は存在していました。

ただ、金沢21世紀美術館が特別だったのは、

「現代アート」
「世界的建築」
「都市ブランド」
「観光」
「公共空間」

を、ここまで強く結びつけ、大成功したことだと思います。
しかも興味深いのは、現代アート美術館でありながら、観光施設としても巨大な存在になったことです。

普通、現代アートは「分かりにくい」「難しい」と言われやすい。
一方で、兼六園のような歴史観光は、多くの人に分かりやすい。
その両方を同じ都市の中に成立させたところに、金沢の特殊さがあります。

そして、その成功は、おそらく全国の地方文化政策にもかなり影響を与えたのでしょう。

つまり、
「文化で都市を作る」
「アートで地方都市をブランド化する」

という流れです。

鳥取県立美術館の《ブリロ・ボックス》騒動も、ある意味では、その延長線上にあります。

世界的建築家・槇文彦による建築。
象徴的な現代アート作品。
全国的話題性。

そこには、
「普通の県立美術館では埋もれてしまう」
という危機感もあったのかもしれません。

ただ、その結果として、《ブリロ・ボックス》は、美術館の象徴になると同時に、税金と現代アートをめぐる全国的議論の象徴にもなってしまった。
地方文化政策の難しさが、そこにはかなり凝縮されている気がします。

鈴木大拙館という、もうひとつの象徴

さらに金沢で象徴的なのは、鈴木大拙館 の存在かもしれません。
鈴木大拙は、禅を世界へ紹介した思想家として知られています。
そして、その鈴木大拙をテーマにした施設が、極めて静かで現代的な建築空間として成立している。

設計したのは建築家・谷口吉生。

水鏡の庭。
余白。
静寂。
直線。
光。

そこには、日本的な禅の世界を、現代建築によって空間化しようとする強い意志があります。
面白いのは、これが単なる「和風建築」ではないことです。
むしろ非常にミニマルで、現代アート的ですらある。

つまり金沢は、
伝統文化をそのまま保存するだけではなく、
「現代建築や現代的空間表現によって再編集する」
方向へかなり強く進んできた都市なのだと思います。

金沢21世紀美術館。
石川県立図書館。
鈴木大拙館。

それぞれ性格は違います。

しかし共通しているのは、
「文化を、空間体験として身体へ開く」
という方向性です。

そう考えると、石川県立図書館が、単なる図書館を超えて“文化空間”化していったことも、金沢という都市の流れの中では、ある意味自然だったのかもしれません。

鈴木大拙館は外国人に大人気のようでした。

角川武蔵野ミュージアムとの違い

ここで思い出すのが、角川武蔵野ミュージアムです。
あそこにも巨大本棚があります。

SNS映えします。
空間演出も強い。
本棚劇場もある。

しかし、石川県立図書館とは決定的に違う。
角川武蔵野ミュージアムは、かなり明確に「編集されたカルチャー空間」です。

イベント。
演出。
ポップカルチャー。
プロジェクションマッピング。
企業による編集力。

つまり、“文化を見せる劇場”なのです。
もちろん、それはそれで非常に面白い。
本を読むというより、本や文化を「体験する」場所です。
巨大本棚も、そこに並ぶ本も、空間全体の演出として強く機能しています。

角川武蔵野ミュージアムでは、本当にインスタレーション空間にしていました。

一方、石川県立図書館は、もっと日常側にあります。
もちろん演出は強い。しかしそこには、県民が普通に入ってきて、本を読み、勉強し、子供が過ごし、高齢者が座り、静かに時間を使う空気があります。

角川は、「カルチャー体験の舞台」。
石川県立図書館は、「公共空間としての日常の文化」。

同じ巨大本棚でも、根本思想がかなり違います。
角川武蔵野ミュージアムは、非日常の文化体験として設計されている。
石川県立図書館は、非日常的な迫力を持ちながらも、それを日常の公共空間へ落とし込もうとしている。
この差は大きいと思います。

だから石川県立図書館は、単なる「映え図書館」とは言い切れないのです。
確かに、映える。しかし、それだけではない。
演出されているが、しかし、観光施設だけではなく、日常的に使われる。
しかし、普通の図書館でもない。
この中間性こそが、賛否を生む理由なのだと思います。

ただし今のところ、私が良かったと思うのは賛否意見の両方に忖度して「中途半端」にしなかったことです。

「旧来型の図書館」は本当に未来へ残れるのか?

もちろん、従来型図書館を愛する人たちの気持ちはよく分かります。

静けさ。
落ち着き。
活字へ沈み込む空気。

そういう場所は大切です。
しかし一方で、もし石川県立図書館が、昔ながらの静かな図書館のままだったら、これからの地方を支える若い世代が集まるのだろうか、ネットやAIでは得られない文化に触れる機会があるのだろうか、とも思います。

今の時代、検索だけならスマホやAIの方が圧倒的に強い。
でも、本当に面白いのは、「こんな本があったのか」
という偶然の出会いだったりします。

巨大な空間を歩き、視界へ飛び込んできた本に反応し、知らなかった世界へ接続される。
これは、物理空間だから起きることです。
AIは、こちらが質問したことには答えてくれます。
しかし、こちらがまだ質問できないものを、空間ごと投げかけてくるわけではありません。

本棚の前を歩いていて、知らない本の背表紙が目に入る。
手に取る。
自分の関心の外側にあった世界が、突然こちらへ近づいてくる。

そういう偶然は、図書館という物理空間が持っている強さです。
だから私は、若い人が「旧来型の静かな図書館」に行かなくなることの方が、むしろ怖いとも思います。

本と出会わない。
本棚の中で迷わない。
AIや検索で答えだけを得る。
自分の関心の外側へ出る機会が減る。

その方が、長期的には文化にとって危ういのではないでしょうか。
石川県立図書館は、その危機に対するひとつの試みのはずです。

ピンポイントで目的のある人からは、本を探しにくいという批判が…

地方都市は「普通」や「古い常識」や「中途半端」では生き残れない

この話を書きながら、数年前に旅行で訪れた釧路のことを思い出しました。
釧路は、観光資源としてはとても魅力的な場所です。

釧路湿原。
阿寒湖。
霧の風景。
港。
炉端文化。
海産物。

特に釧路港周辺は、日本有数の美しい夕日が見られる場所としても知られています。
つまり、釧路には強い魅力があります。

観光資源があれば、街が元気になるとは限らない

ただ、金沢と釧路では、観光資源の性格が違うのだと思います。
金沢は、美術館、兼六園、金沢城、茶屋街、武家屋敷、図書館など、観光拠点が市内に比較的集中しています。街を歩きながら、文化施設や歴史的な場所を回遊できる。

一方、釧路の大きな魅力は、湿原や湖、自然景観など、郊外へ広がる観光資源にあります。
もちろん市内にも、港や夕日、食文化の魅力があります。
しかし、観光資源があることと、街の中心部に人が滞在し、歩き、文化的な時間を過ごせることは、必ずしも同じではありません。
釧路を旅した時、鮓屋の主人が「昔の釧路市内は炭鉱産業でとても活気があった」と話していました。
しかし今は若い人も減り、街の中心部の活気が弱くなっている、とも言っていました。

後から調べると、これは単なる個人の感想ではなく、釧路市の中心市街地活性化や街づくりの課題としても議論されているテーマでした。
かつて釧路は、炭鉱、漁業、港湾、鉄道で栄えた街です。
しかし、エネルギー構造の変化や炭鉱の衰退、人口減少、郊外化によって、街の構造そのものが変わっていった。
これは釧路だけではなく、多くの地方都市が直面している問題なのだと思います。

だからこそ、地方都市が文化や観光で未来を作ろうとすることには、大きな意味があります。
ただし、巨大文化施設には莫大なコストがかかります。
人口減少時代に、財源確保は簡単ではありません。失敗した時のダメージも大きい。
だから、他県の事例や過去の失敗例を研究しながら、慎重に進める必要はあるのでしょう。

とはいえ、建築コストが高騰した現状となっては、なかなかこうした巨額の施設の建替えや新設は容易ではないでしょう。
慎重に検討するというのは、タイミングを失う懸念もあり、難しいものです。

釧路駅前

その意味では、金沢の都市づくりは、かなり戦略的かつ、幸運なタイミングでした。

美術館。
工芸。
建築。
茶文化。
図書館。

それらを都市空間の中へ埋め込み、「文化都市・金沢」というブランドを長い時間をかけて形成してきた。
石川県立図書館も、その流れの中にあるのでしょう。
だから私は、あの図書館を単なる「ハコモノ」と批判するのは、少し違う気がしています。

金沢駅の鼓門ともてなしドーム

中途半端が一番危険!だけど、やり過ぎも危い…

地方都市が文化で未来を作ろうとする時、一番危険なのは、中途半端なことかもしれません。

少しだけ綺麗。
少しだけ新しい。
少しだけ便利。
でも、誰も語らない。

そういう公共施設は、全国にたくさんあります。
批判されないかもしれません。

しかし、記憶にも残らない。
人も呼ばない。
若い世代も集まらない。
観光資源にもならない。
地域の誇りにもなりにくい。

それなら、思い切って振り切った方がいい。
石川県立図書館は、少なくとも中途半端ではありません。
だから賛否が出る。

称賛される。
批判もされる。
写真を撮られる。
語られる。
考えさせられる。

これは公共文化空間として、かなり重要なことです。

ただし、やり過ぎには危険もあります。
「過ぎたるは及ばざるが如し」です。
演出が強すぎれば、落ち着かない人も出る。
観光地化しすぎれば、日常の図書館としての空気が薄れる。
SNSで消費されすぎれば、文化空間が単なる撮影スポットになる。
だから難しい。

中途半端はダメ。しかし、過剰も危うい。
このバランスを、これからどう取っていくのか。
そこが本当の課題なのだと思います。

批判も賞賛も「今後、どう活かすか」の視点があるか?

石川県立図書館をめぐる議論を見ていると、時々、

「すごい」
「映える」
「日本一美しい」

という称賛一辺倒か、

逆に、

「税金の無駄」
「ハコモノ」
「テーマパーク化」

という批判一辺倒か、極端に分かれているように見えます。

でも本来、公共文化空間は、そんな単純な話ではないのでしょう。
単純に絶賛するだけでは、運営や成熟への視点が抜け落ちる。
逆に、単純に否定するだけでは、地方都市が文化で未来を作ろうとする挑戦そのものを潰してしまう。
どちらも危うい。

民間施設なら、感性に合わなければ行かなければいい。
嫌いなら、それで済む。
しかし公共施設の場合は、もう少し考える必要があります。

税金が使われている。
地域の未来に関わっている。
都市の文化政策とつながっている。
県民の共有財産でもある。

だから批判は、単なる好き嫌いで終わるべきではないと思います。
本来の批判とは、より良い方向への提言であるべきです。

もちろん、「こういう文化や観光で県を支える方向そのものに反対だ」
という意見なら、それはそれでひとつの立場です。

ただ、その場合でも、
「では、代わりに何で地方都市を支えるのか」
「人口減少時代に、県は何を軸に未来を作るのか」
まで考える必要があるでしょう。

そこまで考えずに、単に「嫌い」「落ち着かない」「昔の方が良かった」で終わってしまうと、
結果として文化空間を失敗に導く側に回ってしまう可能性があります。
批判するだけでは、空間は育ちません。
称賛するだけでも、空間は育ちません。

大切なのは、その後どう活かすかです。

チャンディーガルの映画が示唆するもの

私はこの感覚を、最近観た、ル・コルビュジェの残した世界遺産のインドのモダニズム建築の都市
「チャンディーガル」の映画とも少し重ねていました。
ル・コルビュジエが、ユートピアを目指して設計した唯一の都市計画と建物群です。

チャンディーガルは、近代建築や都市計画の文脈では、非常に重要な場所です。
しかし現実の都市は、設計者の理念だけでは終わりません。
そこへ人が住み、暮らし、批判し、適応し、勝手に使い始める。
すると都市は、完成図面とは違うものへ変化していく。
つまり本当の評価は、完成直後では決まらない。
時間の中で、人間がどう使い、どう育て、どう愛着を持つかで変わっていく。

これは石川県立図書館にも通じる話だと思います。
完成した瞬間に、

「すごい」
「ダメだ」
「ハコモノだ」
「美しい」

と判断することはできます。

しかし、それだけでは足りない。
公共文化空間は、完成してからが始まりです。

県民がどう使うのか。
若い世代がどう関わるのか。
観光客がどう距離を取るのか。
運営側がどう調整するのか。
批判がどう改善に生かされるのか。

その積み重ねによって、空間は少しずつ文化になっていきます。
そういう意味では、チャンディーガルの映画は、石川県民ほど見ると面白いのではないかと思いました。
理想として作られた空間が、その後どう使われ、どう変質し、どう愛着を持たれていくのか。
それは、石川県立図書館の未来を考える上でも、かなり示唆的です。

真の問いは「建てた時」から始まっている

だから私は、石川県立図書館を単なる「成功」や「失敗」で語ること自体、少し違う気がしています。
こういう賛否がある建物ほど、同じ状態は続かないかもしれない。
私が気になっているテーマの一つでもある「エフェメラ的」な空間のひとつかもしれません。

重要なのは、「県民の宝」としての文化資産として、
「この空間を、この先どう成熟させていくのか」
です。
本当の評価は、10年後、20年後に見えてくるのでしょう。

ただ私は、少なくとも「作る段階」で中途半端にしなかったこと自体は、
まず最初の一歩として、間違っていないと思います。
地方都市が、文化で未来を作ろうとする時、一番危険なのは、
「どうせ無理だからそこそこ立派ならいい」という空気だからです。

普通の駅前。
普通の公共施設。
誰も語らない空間。

それらは、批判すら生みません。

図書館を観光施設にするのはおかしい、という批判のように、
石川県立図書館は、少なくとも賛否を発生させている。
とはいえ、日本一の来館者数を誇る図書館になっている。
つまり、人を本気で反応させている。
そこには、文化空間としての力がある。

だから私のような他県の無責任な観光客の意見はさておき、
石川県民の方にとっては、単純な称賛でも批判でもなく、
「この振り切った公共文化空間を、これからどう生かしていくのか」
という視点で、長い時間をかけて、真に「県民の宝」とすべく、
育てていくべきなのだと思っています。

石川県立図書館は、建てただけで完成した施設ではありません。
これからの扱い次第で、県民の宝にも、巨大なハコモノにもなる。

これだけの施設を観光客にも無料開放しているという、現在の太っ腹な方針も、
ずっと続けるのか、混雑しすぎて見直す時期が来るのか、など、検討事項はいくつかあるのでしょう。

結果論ではあるものの、建築コストは今となっては安かったのでは?
というタイミング的な幸運を、今後、最大限に活かせるのかどうか、
むしろ、ここからが本番ではないでしょうか。

レトロモダンなインテリアに「エフェメラアート」を

Instagram

Instagram でフォロー
ポップアートを超えたポップアートとは?
3Dポップアート~立体アート額の魅力

関連記事

  1. 解体されるモダニズム建築と残り続けるエフェメラ

  2. 『ブレードランナー』の評価にみる価値観の分断と接合へのヒント…

  3. ラベルで楽しむインテリア

ブログ一覧